Main Aisa Hi Hoon(2005)#023
Main Aisa Hi Hoon(私だって普通です)/2005 06.06.20 ★★★★
製作:パムミー・バヱージャ/原案・監督:ハリー・バヱージャ/脚本:バーヴァニー・イェール/台詞:アヌラーグ・カシャップ/撮影:アヤナンカ・ボース/音楽:ヒメーシュ・リシャームミヤー/作詞:サミール/振付:ガネーシュ・アチャルヤー/背景音楽:アマル・モーヒレー/美術:アジャイ・ヴェーレーカル・編集:メルズィン・タワリア
出演:アジャイ・デーヴガン、スシュミター・セーン、イーシャー・デーオール、アヌパム・ケール、ヴィクラム・ゴーカレー、アンジャン・スリワスターワ、リレッティ・ドゥベイ、ベビー・ルチャー・ヴァイダー
公開日:2005年5月6日(年間25→40位→圏外/日本未公開)
STORY
シムラーのカフェに勤めるニール(アジャイ)は、行きずりの家出娘マーヤー(イーシャー)が置き去ったグングン(ルチャー)を育てていた。ある日、ロンドンからマーヤーの父トリヴェディ(アヌパム)が現れ、グングンの親権を争う裁判を起こす。ニールは女流弁護士ニティ(スシュミター)を雇おうとするが、裁判の争点はニールが7歳児相当の知的障害者であったことから・・・。
Revie-U *結末には触れていません、ご安心を。
アジャイ・デーヴガンは「Tera Mera Saath Rahen(おまえと俺は一蓮托生)」(2002)で脳性小児麻痺の弟を持つ悩める主人公を演じたが、本作では彼が知的障害者となって愛娘グングンの親権を裁判で争う。
彼女の母親となるのが、イーシャー・デーオル。男に捨てられた無一文の家出娘がその役どころ。ニールに絆(ほだ)されつつ、出産後に姿を消してしまう。
デビュー間もない「Na Tum Jaano Na Hum」(2002)が良作だっただけに大きく期待されたイーシャだが、その後は「Dhoom(騒乱)」(2004)など添え物ヒロインが続き、低迷したかに見えた。このへんは実母ヘーマ・マーリニーにしても往年の俳優は膨大な量の愚作にも果敢に出演していたので、とにかくフィルモグラフィを増やす方針だったのだろう。本作で見せるしっとりとした芝居には、陰ながらキャリアを積んできた証が見て取れる。
こうして、ニールはカフェの店主ディヴェーシュや隣人リトゥーなどに見守られながら、男手ひとつでグングンを養育してゆく。 通学中、同級生が「あの子の父親はパーガルよ」と言ったことからグングンが喧嘩を仕掛け、知的障害のニールがこのまま子供を育てられるのか、と心配すれば、次のシーンではカフェに集った若者たちがニールに歌うよう求める。ディヴェーシュの渋い顔がインサートされ、ギターを手に持つニールも表情も恐々とあって、「ミモラ 心のままに」Hum Dil De Chuke Sanam(1999)でのド音痴アジェイが思い出される。
やはり障害者いじめか……と、ここで不意打ち。シャーンの美声によるアングレージ・ナンバル「just walk into my life」となる鮮やかさ! ニールがいかに町の人々から愛されているか示されるのだ。
監督のハリー・バヱージャは「殺したい女」(1986=米)の翻案「Mujhe Meri Biwi Se Bachcho(私を妻から救って!)」(2001)や「ザ・ロック」(1996=米)のコピー「Qayamat(破滅)」(2003)などを手がけ、ほつれを勢いでカバーするB級手腕の持ち主であったが、本作での演出は先に見たようにそつなくエピソードを繋いでいる。男に捨てられたと判ったマーヤーが断崖から飛び降り自殺を図ろうとするシーンでも、いきなりニールが駆け寄って助けるような愚弄はせず、ひとり彼女が思い止まる、というだけでも収穫だろう。
もっとも、イタダキ監督だけに本作も「I am Sam/アイ・アム・サム」(2001=米)の衣装直し。原版ではショーン・ペンが知的障害の主人公を演じ、女流弁護士にはミシェル・ファイファーがキャスティングされ、彼から親権を取り上げようとするのは米国映画らしくソーシャル・ワーカーと里親になっている。
原版での某カフェ・チェーンを意識したせいか、ニールの務めるカフェがオシャレ過ぎる嫌いがあるが(観光地シムラーにしても)、祖父が孫娘を取り返しに来るところなど、巧みにインド流に置き換えているのには感心。単なる親権争いの民事裁判が、物語の展開によって人々の関心を大いに集めてゆくのも佳い。
脚本には「Black」(2005)のバヴァーニー・イェール、台詞が「Yuva(若者たち)」(2004)のアヌラーグ・カシャップと、B級の王道を歩んできたバヱージャにしては心強い布陣。もっとも、息子をデビューさせようとする次回作「Love Story 2050」でも引き続きトリオを組むというから、逆にバヴァーニーとアヌラーグのキャリアが心配になってしまう・・・。
(オープニング・タイトルバック明け、シムラーでのファースト・カットが曇り空の下にそびえる教会を見据えたショットとなっていて、「Black」を連想させる。もっとも、構図からすると「Lucky」でも見られたが)。
後半は、ボリウッドにおいてひとつのジャンルとなっている法廷物として展開。ここで画面を引き締めるのが、敏腕女流弁護士ニティ役のスシュミター・セーン。相手方の弁護士ヴィクラム・ゴーカレー(「ミモラ」の父親役)に一歩も引けを取らず、堂々とした演技を見せる。
なにかとアイシュワリヤー・ラーイに比べられ、ゴージャスなセクシーヒロインに甘んじていた彼女だが、知的で押しの強いキャリア役には適任。続く「Chingaari(閃光)」(2006)と着実に演技面での充実が見られ、頼もしい限りである。
このニティだが、はじめは仕事一本槍で女手ひとつで育てる息子がネグレクト状態にあったものの、ニールの子供を思う氣持ちに動かされ、弁護費用なしで裁判を引き受ける。同時に、息子との関わりを取り戻してゆき、これが裁判に臨んだ彼女の強さとなってゆくのだ。
裁判のゆくえは単に情愛に訴えるだけでなく、ニールの父親としての能力を証言しようとするディヴェーシュやリトゥーらのバックボーンが暴(あばか)れそうになる様がスリリング。
また、孫娘を寄宿学校に訪ねたトリヴェディが、グングンから拒絶され「娘そっくりだ」とぼやくなど、脚本・台詞のアレンジ具合も良好。
マーヤー役のイーシャーが後半になってもなかなか登場しないと思っていたら、彼女は失踪した後もドラッグに溺れ、ついに身を滅ぼしたことが明かされる。父親に心を閉ざし続けたマーヤーの姿が、学校では心を開かず友達がいないグングンに重なる。例え、トリヴェディが孫娘をロンドンに連れ帰っても、マーヤーの二の舞いとなるのが見て取れる構図となっている。
(トリヴェディが素性さえ知らぬ孫娘を取り戻そうとするのは原版からの流れであるが、彼がロンドンで成功したNRIという設定からも許容できる。これがインド国内のミドルクラスであれば、ダウリーの負担をわざわざ背負い込むようなこととなる。俗に「ダウリーで大金を払うより、今の女児堕胎を」と言われる)
トップ9に食い込みながら、サルマーン・カーンとアニル・カプールの愚弟コンビ、アルバーズ・カーンとサンジャイ・カプールが足をひっぱりまくっていた前作「Qayamat」とは異なり、安定した芝居を見せる実力派俳優たちが揃えられ、これが本作の見応えとなっている。
演技派として誉れの高いアジェイは、「The Legend of Bhagat Singh」(2002)で二度目のNational Film Award 主演男優賞を受賞。原版でリアルな知的障害者を演じようとしたS・ペンに比べると、アジャイはより子供に近づけた芝居づくりを見せているが、それゆえ、ニールの純真さがより強調される。
また裁判で対峙するトリヴェディ役のアヌパム・ケールもNational Film Award 助演男優賞受賞者であり、娘が拒絶し続けたその威圧感と家族愛を求める父親を好演。
その他のサポーティングには、カフェの店主ディヴェーシュに、「Chingaali」のアンジャン・スリワスターワ。 なにかと面倒をみる隣人リトゥーに、「Chalte Chalte(行って、行って)」(2003)の伯母、「Kal Ho Naa Ho(明日が来なくても)」(2003)の色情女ジャズを演じたリレッティー・ドゥベイ(娘は、「Munna Bhai MBBS」の病室慰安ダンサー役だったネーハ・ドゥベイ)が配置されている。
原版を意識したせいか、妄想飛びのミュージカル・ナンバルは廃されているが、ヒメーシュ・レーシャミヤーのフィルミーナンバーは軽やかで心地よい。街角ナンバー「papa mere papa」などガネーシュ・アチャルヤーの簡素な振付も手伝って、グングンに扮するルチャー・ヴァイドヤーが実に愛らしい。
背景音楽のアマル・モーヒレーによるスコアは耳に残り、特にマーヤーが自殺を思い止まるくだりなど広がりがあって胸に響く。
地味な物語であるためか、ボックスオフィス・トップ50圏外に押し流されたフロップであるが、観てみれば、アラビア海の砂浜に埋もれた小さな真珠一粒を手にしたような歓びを得ることだろう。
原版の「アイ・アム・サム」は、知的障害の主人公がこの社会で生きる混乱ぶりを表すかのごとく寒々としたブルーの色調で画面が埋め尽くされ、小刻みに震えるキャメラワークなどからも神経症的な印象が否めない。女弁護士は精神科医にかかり、依頼を引き受けるのも弁護士仲間に対する虚勢から。リトゥに相当する隣人は外出恐怖症で、赤ん坊の子育て法として子供向けTVチャンネルに合わせた授乳をアドバイス。登場する子供たちは皆スマートではあるが、どこか醒めた表情。逃げ去った母親のバックボーンも触れられず、孤立した社会での寓話として仕上がっていて、作品としてよりも「社会」の違いが浮き彫りとなって興味深い。