Lajja(2001)#249
Lajja(恥)01.12.06 ★★★★
ラッジャー
製作・原案・脚本・台詞・監督:ラージクマール・サントーシー/台詞:ランジート・カプール/撮影:マドゥー・アムバット/音楽:アヌー・マリック/背景音楽・音楽:イライヤラージャー/詞:サミール、プラサン・ジョシー/振付:ガネーシュ・アチャルヤー/アクション:ビクー・ヴェルマー、パップー・ヴェルマー/美術:ニティーシュ・ローイ/編集:V・N・メイェーカル
出演:レーカー、マードゥリー・ディクシト、マニーシャー・コイララ、マヒマー・チョウドリー、ジャッキー・シュロフ、アニル・カプール、アジャイ・デーヴガン、ジョニー・リーヴァル、スレーシュ・オベローイ、グルシャン・グローヴァル、ティヌー・アナン(=アーナンド)、ゴーヴィンド・ナームデーオ、アンジャン・スリワスターワ、ファリーダー・ジャラール、ジャグディープ、アスラーニー、ダニー・デンゾンパ、ラザック・カーン
特別出演:ウルミラー・マートーンドカル、ソーナーリー・ベンドレー
公開日:2001年8月31日(日本未公開)
STORY
妻を蔑ろにする夫ラグー(ジャッキー)に追い出されたヴァイデヒー(マニーシャー)だが、妊娠していることが知れ、ラグーたちに追われる身となる。そして、数奇な運命に翻弄されたヴァイデヒーは行く先々で哀しい女の運命を見てゆく・・・。
Revie-U *結末に触れています。
「この映画に描かれていることは、まったくの絵空事ではありません」と言う監督ラージクマール・サントーシー自らのナレーションに続き、「アッマー!」と絹を切り裂くような女の叫び声。そして、滴り落ちる血で描かれたタイトルロゴ「恥」。
闇の中を「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964=東宝)のように舞う紅いサーリー。有刺鉄線に引き裂かれ、地面に落ちては行進する男たちの革靴で踏みにじられる。ヒンドゥーの聖火へ吸い込まれ、燃え上がり、女たちの絶叫が響く。これは、マニーシャー・コイララ扮する狂言まわし、ヴァイデヒーの見る夢なのだが、本作のテーマすべてを物語っている。
ヴァイデヒーは、自由の女神がそびえ立つニューヨークに住むNRI(在外インド人)。だが、これから描かれる女性たちが「自由」とも「女神」とも縁遠いことが伺われる。
彼女の夫ラグー(ジャッキー・シュロフ)は仕事に託つけて、女との遊びを絶やさない富豪。妻に耳を貸すようなことなどせず、「カモ〜ン、ダーリン」とか言ってあやせば済むと思い込んでいる。それでも女が従わなければ平手を飛ばす。思うに、インド社会にごく見られる男性像ではないだろうか。
自分たちが主催のパーティーでも女といちゃつくラグーに苛立ったヴァイデヒーは夫と口論となり、その晩のうちにインドへ送り返されてしまう。実家に戻っても疎まれるだけだ。ミドル・クラスの父親はラグーに頭が上がらないのである。
ラグーにも天罰が下る時が来る。ビジネスパートナーのアニターとデート中、交通事故に遭い、一命は取り留めたものの不能となってしまう。だが、ヴァイデヒーが妊娠していたと知ると、ラグーは部下に命じて彼女を取り押さえようとするのだ。
「Ek Rishtaa(或る関係)」(2001)でも、不仲になったアクシャイ・クマールがカリシュマー・カプールから我が子を奪うシーンがあったが、なぜそれほどまでに子供(それも嫡男のみ)に執着するのかと言うと、実利主義であるヒンドゥーにとって嫡男こそが一族の繁栄を担う儀礼の執行者であるからだ。嫡男の重要性は悪名高き「マヌ法典」でも強調されていて、「子孫を残す」という行為が生まれながらのリナ(債務)とさえ言われるほどなのである。
事故を理由に一度は懐柔されたヴァイデヒーは空港まで向かう。しかし、ラグーの狙いがお腹の中の子供だと知ると、彼女は姿を消す。彼女のガードに当たっていたのが、ラザック・カーンとジョニー・リーヴァルであるから、万事ヨロシクというわけにはいかないのだ。
追われるヴァイデヒーを倉庫で匿うのが、アニル・カプール扮するコソ泥ラージュー。倉庫の壁にはドゥルガーが描かれているので、これは女神の思し召しである。彼は、眠り薬入りのビスケットで警備の人間を眠らせたり、彼女のヘアピンを使って金庫を開けたからと10%の札束を渡すなど憎めない。
ラグーは金に飽かして警察をも抱き込んでいて、警官までもが彼女を探し回る。ラージューと別々に倉庫から出たヴァイデヒーは、結婚式の浮かれた行進に身を潜め、そのまま結婚式が行われる屋敷へ入り込む。インド映画に登場する結婚式はどれも豪華なものだが、本作もかなりのものだ。豪邸の外観はすべて電飾が施され、数百人規模の来客が屋敷を埋め尽くす。インドの結婚式は来る者拒まずなので、逃げ込むにはうってつけだ。
ヴァイデヒーは、そこで陽氣なラージューと再会。しばらく結婚式の宴が続く。ヴァイデヒーの状況を考えるとなんとも皮肉な巡り合わせなのだが、実はそうでもなかった。花嫁マイティリー(マヒマー・チョウドリー)の父親(アンジャン・スリワスターワ)は、婚礼の最中だと言うのに花婿の父親(ゴーヴィンド・ナームデーオ)から婚資の額を釣り上げられているのだ。
ダウリー(持参金)は現在禁止されているが、実際には根強く残っていて、近年花婿側の要求はますますエスカレートしている。その額はミドル・クラスでも家長の年収の2〜3倍になることが珍しくない。マイティリーの家は豪邸に住み、なかなか裕福そうだが、上流階級になればなるほど婚資の額は上昇する。華やかな結婚式の費用も花嫁側が負担するわけで、金持ちと言えどこれ以上の婚資を捻出するのは難しいのであろう。
では、何故これほどまでして娘を嫁がせねばならないかと言うと、これも単なる世間体に留まらず、ヒンドゥーのダルマ(法)によって娘を嫁がせることが家長の責任になっているからなのである。
行きがかり上、事情を知ったヴァイデヒーとラジューが盗んだ札束を婚資の鞄に隠し入れ、丸く収まるかに見えた。しかし、事は露見し、キレたマイティリーが花婿の一家を追い出してしまう。通常なら考えられない行為だろう。
本作は名だたる大女優が豪華競演したマルチスター・システムの大作であるが、この中で比較的キャリアの薄いマヒマーがキャスティングされているのも、「Dil Kya Kare(心迷って)」(1999)、「Khiladi 420(偽闘士)」(2000)など、絶叫には定評のある彼女だからであろう。
ラグーもインド入りし、ヴァイデヒーを捕まえようと躍起になる。だが、彼女は寸でで逃げおおせて狂言回しの役を担ってゆく。
次のエピソードは、ラージューの手紙を頼りに訪ねたローカル劇団が舞台となる。ヴァイデヒーを迎え入れる座長プルシャータンジー(ティヌー・アナン)は熱烈なヒンドゥーで、聖なる牛の小便を拝んで頭に振りかけるほどである。インドの町角で見かける牛は単なる野良牛でなく、寺院に寄進され神の名の下に放たれ「自由」を得た存在だ(インド女性の立場とはまるで異なる!)。
牛糞も穢れなき物とされるが、ヴァイデヒーが顔を顰めているカットがあるところをみると、「聖水」まで神聖視するのはよほど熱心な信奉者だけなのか、あるいはヴァイデヒーが外国ズレしたNRIだからだろうか。
さて、このエピソードのヒロインは、まさに劇団でもヒロインの座にあるジャンキー(マードゥリー・ディクシト)である。彼女は一座のヒーロー、マニーシュと恋人で、食事中も睦まじい仲を見せつける。
マードゥリーは三十路を越え、すでに結婚したとあって、スター女優のピークを過ぎてしまったけれど、堂々たる風格と隙のないダンスを見せ、大いに感嘆させられる。インド映画界は女優生命が短いと言われるのが真に残念である。なんだかマードゥリーのキャスティングをも含めて、本作のテーマが示されているように思えてならない。
そのマードゥリーのダンス・ナンバルが「badi mushkil hai(とっても難しいの)」。砂を敷き詰めた通りの夜間セットでマニーシャーを前に踊って見せるのだが、心地良さそうな砂しぶきも手伝ってヴァイデヒーが癒されてゆくのが判る。
ここでの騒動は、演目「ラーマーヤナ」の本番中、浮気性のマニーシュに腹を立てたシーター役のジャンキーが突如アドリブを始めてしまうことから起きる。
「ラーマーヤナ」は今も絶大な人氣を誇るヒンドゥー神話で、このシーンは神話のラスト・シークエンスにあたる。魔族ラーヴァナに拉致されていたシーター姫がハヌマーンらの活躍で無事救出されたものの、魔族と共に長らく居た事から夫、ラーマ王へ身の潔白を証明しなければならなくなる。ではどうやって証明するかと言うと、貞操を誓って聖なる火の中へ飛び込むというものだ。
このシークエンスは、ヒンドゥー観が強まった後代になって取って付けられたものだと言われ、一説によるとラーマの行為は「自分の妻を疑ったりはしないが、公の前での証明を求めただけだ」と説明される。男たちの都合のために女が火の中へ投げ込まれる、という行為は今もインドの女性を苦しめ続けている。
それはサティーと呼ばれる寡婦殉死で、ヒンドゥーの妻は夫の死に際し、死後も夫に添い遂げるために共に聖火の中へ身を投じなければならないというものだ。いささか時代遅れな風習に思えるが、これもダウリー同様、法律で禁止されている現在もしばしば見られ、ヒンドゥーのみならず、キリスト教徒やムサルマーン(イスラーム教徒)などにも広がって悪用されているのが現実である。
そんなわけで、アドリブを始めたジャンキーに客が罵り出すのは、単に芝居の筋書きを変えられたからではない。神聖な神話劇が侮辱されたわけだ。劇場前にはヒンドゥー原理主義者たちが詰めかけ、シュプレヒコールの中、ジャンキーは人々に踏みつぶされてしまう。夫ラーマより追放されたシーターも妊っていたが、ジャンキーもまたそうであった。
興味深いのは、ジャンキーがアドリブでしゃべり出すと言う設定だ。つまり、女が自分の言葉で主張を始めたと言うことだからである(ただ、マードゥリーとマニーシャーが語り合うシーンはなぜか、二人ともアテレコされていて興醒めしてしまう。スケジュールの都合か)。
しかし、あのマードゥリーヴァルが、群衆に小突かれ、なんと顔をも踏み付けられてしまうとは!
最終エピソードは、悪らつなタークル兄弟(ダニー・デンゾンパとグルシャン・グローヴァル)が治める農村が舞台となる。
このパートは、レーカー扮する村の助産婦ラムドゥラリーにスポットを当てている。この村は、晩に取り上げた子供が女だったことから、翌朝にはミルクの中へ押し込まれ間引かれそうになるような、そんな旧態依然とした貧しい農村なのだ。先にも見たように、インドで女に生まれることはまさに苦難そのものだと言えよう。
ラムドゥラリーは、村の女性が字を書けるようにと試みる社会運動家でもある。息子のプラカーシュは村一番の秀才で、コンピューター・プログラマーを目指していて、IT革命の波がインドの農村へまで及んでいることが示される(村に初めて来たパソコンにプージャするのが可笑しい)。
だが、この変化も悲劇を生んでしまう。娘がプラカーシュと恋仲であることを知ったタークルが、ラムドゥラリーたちを襲うのだ。タークルは、色目を使った少女に抵抗されると逆上して、熱湯に少女の手を突っ込む非道など平然と行ってやまない輩なのである。
ヴァイデヒーはプラカーシュたちと森へ逃げ込み、義賊ブルワー(アジャイ・デーヴガン)に守られる。実はこの村へ彼女が辿り着いたのも、乗り合わせた列車がダコイト(群盗)たちに襲われ、この時、走っている列車の屋根で寝ていた(!)ブルワーに助けられたためだ。
それにしても、アップ・トゥ・デートなニューヨークから始まって、ダクー(ダコイトの別名)に行き着くとは! ニューヨーク、大都会ボンベイ、そして盗賊ダコイトが出没する農村へとなんだか時代がどんどん遡ってゆく印象を受けるが、それだけインドの状況が前時代的な状況を孕んでいるということなのだろう。
アジャイは大時代的な盗賊然としたメイクで、その上、極太のベルトにスチールで出来た鞭のようにしなる鎌を仕込んでいて、まるでキン・フー映画のような大立ち回りで取り囲む男たちをばったばったと斬り刻んでゆく。
原案・脚本を兼ねるラージクマール・サントーシーが何を思ってダクーを登場させたのかは、まったく不明だ。一時より沈静化したとは言え、ダコイトは今も出没しているし、彼らの中には劇中のアジャイのような物々しい口髭を生やしている連中もいるにはいるのだが…。
ラージクマールは冒頭、自らのナレーションで語っているように、今も起こりうるインドの現状を丹念にリサーチした結果、組み込んだエピソードなのだろうか。あるいは、女性向けの映画と言っても足を運んだ男性客へのサービスなのだろうか。
ただ思うに、ここにラージクマールの美学が凝縮していると思われるのだ。
ヴァイデヒーにかけた懸賞金によりタークルたちから知らせを受けたラグーが意気込んで乗り込んで来る。だが、ブルワーらの殺戮を目の前にするや、彼は立ちすくみ、それまでの鼻息の荒さはきれいに消し飛んでしまう。所詮、女子供に威張り散らす男など意氣地が無い、ということか?
ラージクマール・サントーシーは、サニー・デーオール主演の怒り爆発映画「Ghayal(傷ついた者)」(1990)で年間トップ1を放ちアクション派として鳴らした。長じて女性映画に取り組んでいるところなど、どこか深作欣二を連想させる。まあ、そんなわけで、場違いな美学が示されているような気もするのだが…。
どっこいタークルは悪びれず、その晩、手勢を連れて軟禁していたラムドゥラリーを陵辱した上、殺してしまう。オープニングで「アッマー」と叫んでいたのは、このレーカー扮するラムドゥラリーの悲痛だったのだ。
翌日、タークルの屋敷へ乗り込んだブルワー一味は逆に殺され、タークルはダコイトを退治した英雄として表彰される。
この表彰式のセットは、フィルムフェア・アワードの授賞式かと思うほど垢抜けたセットで、ステージには篝火を担う女性をモチーフにした燭台が据えられている。
ここで、ヴァイデヒーがタークルの悪行を暴き、激怒したオバサンたち(!)がタークルを締め上げるのである。
さて、結末はと言うと、心を入れ替えたラグーがヴァイデヒーに謝り、ふたりはヨリを戻してしまうというもの!!!!!! しかも、ラムドゥラリーと名付けた女の赤ちゃんを抱いて歩くニューヨークの町角でタクシードライバーとなったラージャーと再会。彼はマイティリーと結婚、ジャンキーはニューヨークでチャリティ公演するまで有名になってめでたし、めでたし・・・とは、さすがラージクマール・サントーシー!!!
しかし、狂言回しとは言え、ほとんど疫病神のようなヴァイデヒーとラグーに女性客は暴動を起こさなかったのだろうか?!?
製作費は2億8000万ルピー(邦貨にして約8億円。実質、40億円程度)。7大スターの競演は、年末公開の「家族の四季」K3G(2001)以上?!
ゲスト出演も豪華だ。ニューヨークのクラブ・ダンサー役でウルミラー・マートーンドカルがゲスト出演。「Pyaar
Tune Kya Kiya…(君に恋をした…)」(2001)以降、ラーム・ゴーパル・ヴァルマーと切れたウルミラーは、今回のゲスト出演が縁でラージクマール・サントーシーの次回作に出演するとか。
また、結婚式ナンバル「saajan ke ghar jaana hai(愛しき人の家に行くの)」では、ソーナーリー・ベンドレーがダンサー役でゲスト出演している。
オリジナル・スコアと「kaun dagar kaun shebar」をA・R・ラフマーンの師匠、イライヤラージャーが担当し、背景音楽の演奏はブダペスト・ラジオ交響楽団がレコーディング。その他のフィルミーソングは、ヒットメーカー、アヌー・マリックの手による。
撮影は、ハイダラーバードのラモジ・フィルムシティで行われた。
豪華競演の大作だけにボンベイの初日は100%近い数字を上げたが、第1週平均77%。2001年のヒットチャートを爆走した「Gadar(暴動)」(2001)には遠く及ばなかったものの、年間11位をキープ。
*追記 2011,04,24
マードゥリーが演じている神話「ラーマヤナ」を映画化したのが、アビシェーク・バッチャン N アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャン主演「Raavan」ラーヴァン(2010)。