Lagaan(2001)#021
「ラガーン」Lagaan – Once Upon Time In India(地税)/2001 01.11.07/04.10.22Re ★★★★★
製作総指揮:レーナー・ダッタ/製作:アーミル・カーン/原案・脚本・英語台詞・監督:アシュトーシュ・ゴーワリカル/脚本:クマール・ダイヴ、サンジャイ・ダイマー/台詞:K・P・サクセーナー/撮影:アニル・メーヘター/美術:ニトゥン・チャンドラカント・デーサーイー/衣装:バーヌー・アタイヤー/音楽:A・R・ラフマーン/詞:ジャーヴェード・アクタル /振付:サロージ・カーン、ラージュー・カーン、ガネーシュ・へーグデー、ヴァイバヴィー・メルチャント、テレンス・レウィス/編集:パール・サルージャ/助監督:キラン・ラーオ
出演:アーミル・カーン、グレーシー・スィン、レイチェル・シェリー、ポール・ブラックソーン、スハーシニー・ムーレイ、クルブーシャン・カールバンダー、ラグヴィール・ヤーダウ、ラージェーシュ・ヴィヴェーク、シュリー・ヴァラーブ・ヴヤス、ジャーヴェード・カーン、ラージ・ズトシー、アーキレーンドラ・ミシュラー、プラデープ・ラーワート、ダーヤー・シャンカル・パーンディー、ヤーシュパル・シャルマー、アミン・ハージー、アディティヤ・ラーキア、アミン・ガーズィー
ナレーション:アミターブ・バッチャン
公開日:2001年6月15日(年間トップ3ヒット!/日本未公開/日本版DVD2003年3月26日発売)
NATIONAL AWARDS:金の蓮賞・娯楽部門最優秀作品賞/銀の蓮賞・音響賞、作詞賞(radhakaisa na jale&ghanan ghanan)、音楽監督賞、男性プレイバックシンガ ー賞(mitwa〜ウディット・ナラヤン)
47th FILM FARE AWARDS:作品賞、監督賞、ベストストーリー賞、脚本賞、主演男優賞(アーミル・カーン)、作詞賞、音楽監督賞、男性プレイバックシンガー賞(mitwa〜ウディット・ナラヤン)、女性プレイバックシンガー賞(o re chhori〜アルカー・ヤーグニク)
I.I.F.A. インド国際映画協会賞:作品賞、主演男優賞、ストーリー賞、監督賞、作詞賞、女性プレイバックシンガー賞(radha
kaise na jale〜アーシャー・ボースレー)、作詞賞(radha kaise na jale)、音楽監督賞、編集賞、音響賞、他5部門ノミネート。
8th SCREEN VIDEOCON AWARDS:作品賞、監督賞、新人賞(グレーシー・スィン)、脚本賞、女性プレイバックシンガー賞(radha kaise na jale〜アーシャー・ボースレー)、編集賞、他10部門ノミネート。
ZEE CINE AWARDS:作品賞、監督賞、主演男優賞、新人女優賞、作詞賞(radha kaise na jale)、音楽監督賞、ストーリー賞、女性プレイバックシンガー賞(radha kaise na jale〜アーシャー・ボースレー)、他2部門ノミネート。
ノルウェー・ベルゲン国際映画祭:最優作品賞。
英・リーズ国際映画祭:観客賞。
ノルウェー・ロカルノ国際映画祭:観客賞。
スウィス・ロカルノ国際映画祭:観客賞。
デンマーク・Nat映画祭:観客賞。
米・ポートランド国際映画祭:観客賞。
米 CHOREOGRAPHY AWARDS:最優秀賞。
ヨーロッパ映画祭:国際映画賞ノミネート
米アカデミー賞(R):外国語映画賞ノミネート。
STORY
1893年、チャンパネール。村人ブヴァン(アーミル)に狩りを邪魔され、機嫌を損ねた英国大尉アンドリュー・ラッセル(ポール)は、ラージャー(クルブーシャン)に住民の地税ラガーンを倍払わせるよう命じる。村人たちは直訴しに行くがラージャーはクリケット観戦中で、その中にブヴァンをみつけたアンドリューが「クリケットで勝てば3年間地税を免除、負ければ3倍払うこと」と彼に賭け試合を受けさせる。しかし、誰一人クリケットなどやったことはない。尻込みする村人を巻き込んでチームを作り上げてゆくブヴァンにアンドリューの妹エリザベス(レイチェル)が強く惹かれ、彼の幼なじみガウリー(グレーシー)が嫉妬し始める。果たして、地税を賭けたクリケットの勝敗は・・・。
Revie-U
アーミル・カーンが自らのプロダクションを興して製作した第1作。完全主義者と言われるアーミルだけに、2500万ルピー(1ルピー=2.8円の換算で7億円)をも掛け、オープニング・タイトルバックからして英国資本の歴史物(植民地統治物)映画と見間違うほどのスケール、それも堂々4時間(!!!!)、短めの豪州版でも3時間42分という超大作である!(故にこのレビューもかなり長い)
リリースが重なったサニー・デーオール、アミーシャー・パテール主演「Gadar(暴動)」(2001)と共にこの夏のパイを食い尽くすメガヒットとなった。どちらも金を掛けまくった大作で、インドの歴史や心情に則ったテーマを選んでいるが、特に本作はインドで熱狂的に支持されるクリケットを取り上げており、これが見どころになっている。
舞台は西インド、パーキスターンと陸海を接するグジャラート州カッチ地方にあるチャンパネールの藩王国。カッチ地方には大カッチ湿原があるが、ロケ地のブージー郊外はまばらに樹木が散立するデザート地帯。おまけに2年も雨が降っていない、という設定である。
冒頭から村の点景描写が示され、適度に登場人物が紹介されてゆく。さて、アーミル扮するブヴァンは? というと、彼はブッシュに潜み、たたずむ野鹿を凝視している。狩人にしては息が荒い。そして、手にするのは、ただの小石。彼が石を投げると同時に銃声が響く。実は、鹿狩りを楽しむ英国大尉を妨害していたのだ。しかし、それが発覚、ブヴァンの目の前で鹿とウサギが撃たれ、「この次は、おまえも殺すぞ」と脅される。
インドの人々は動物の生命を尊び(時に「人間以外の」とつけ加えられる)、主人公の正義感を伝えるエピソードだが、公開後、倒れて動かない鹿の画が1カットあったために野生動物保護委員会から違法な行為と噛み付かれる一幕も見られた。
狩りを邪魔された英国大尉こそ、ブリティッシュ・ヴィレイン、キャプテン・アンドリュー・ラッセル。扮するポール・ブラックソーンは、英国ではTV映画やさほどメジャーでない映画に何本か出演、国際的に著名ではないが実力を持つ俳優と言える。
本作に登場する英国人キャストは、映画の要だけにロンドンのエージェントを通して招かれたプロの俳優たちで、ここにもアーミルの完全主義、本物指向が伺われる。少しでも予算を惜しんで、在印の素人ガイジンを使ったりすれば、映画の格は地の底に落ちていたことだろう。
アンドリューは、インド政庁から藩王国に派遣された若き政務官。物腰は穏やかで極めてジェントルに振る舞うが、菜食主義のラージャーに肉を食えと強要したり、地税を倍にしたかと思えば、クリケットの賭け試合を仕組んだりする。前年、旱魃のためにラージャーが温情から地税を半額にしたことを腹立たしく思っていて、今年は雨が降ろうが降るまいが昨年の損失も含めて地税はしっかり取り立てる、と容赦ない。このアンドリューの気まぐれな一面には、守備一貫としない場当たり的な統治政策を続けたブリティッシュ・ラージの姿が見て取れる。
本作の脚本は監督のアシュトーシュ・ゴーワリカルのオリジナルであるが、構成も巧みで舌を巻く。
開幕早々、登場人物たちが紹介されていった後、先のラージャーがダブル・タックスを言い渡される。場面は村へと変わり、丘の上にある寺院で寺守りが雨雲を見つける。待ちに待った2年ぶりの雨だけに、村人全員が雨季の到来を歓び踊るミュージカル・ナンバー「ghanan ghanan」(振付:ラージュー・カーン)となるものの、雨雲はあっさりと去ってしまう。悪い予兆だ。すると、ラージャーの使いが現れ、地税が倍になったことを告げる。これはあんまりだと言うので、村人はラージャーのところへ直訴しに行くのだが、ラージャーはアンドリューらのクリケットを観戦している。
ほんの少し前、若造のアンドリューに苦々しい屈辱を受けたばかりのラージャーであるが、彼らと共にいるとは! ブリティッシュ・ラージの前に、もはやラージャーは骨抜きにされ、張り子の虎どころか単なるお飾りと成り下がり、自分たちの豪勢な生活を保つこと以外、何も出来なくなっているわけだ。
村人たちはクリケットの試合が終わるまで炎天下で待たされ(彼らには大の大人が働きもせず子供の遊びに興じているように見える)、ようやくラージャーに直訴することが出来る。ここにアンドリューが何喰わぬ顔で現れ、ブヴァンをみつける。彼は紳士のスポーツである鹿狩りを邪魔した上、神聖なるクリケットを「玉叩き」(日本版DVDの字幕では「棒打ち」)呼ばわりしたので、アンドリューは腹いせに無理難題な取引を持ちかける。すなわち、「2倍の地税は撤回してもいい。ただし、クリケットで勝負すること。勝てば、3年間免除。負ければ、3倍」というものだ。
「玉叩きなんてカンタンだ」と言い捨て、賭け試合を受けてしまったブヴァンに村人は誰一人、取りあわない。英国人たちは日長一日クリケットに興じており、方や村人たちはクリケットのクの字も知らない。プロと子供ぐらい差がある。
しかし、ブヴァンには勝算がなかったわけではない。先に「玉叩き」と意訳したが、彼らは子供の頃、クリケットのような遊びギリ・ダンダをやっているので、まったく不可能ではないと踏んだのだ。
クリケットは日本人にはあまり馴染みがなく、この点では村人たちと似たようなものだろう。せいぜい米国野球の原型程度という認識から見れば、助走をつけて投げられたボールを360度どんな角度に打ってもよく、2人のバッツマン(打者)がバットを持ったまま2つの陣地を交互に駆け回る様は、もともと羊飼いの遊戯だっただけあって、より「子供の遊び」に見える。
しかし、クリケットは19世紀前半には英国の貴族階級に定着し、大英帝国のジェントルマン精神の基本を織りなすものにまでなっていた。観戦は社交の場でもあり、旧植民地にも盛んに奨励された。言わば、本作の1893年という年代は、今日的なクリケットのルールが確立されてすでに50年以上経ち、紳士にとって神聖かつ伝統あるスポーツとして、ある種、最も権威に満ちていた時期として見ることができる。
この後の、ブヴァンたちが11人のメンバーを集め、クリケットを習得してゆく様子が実に面白い。
まず、作業場でなにやら作り物をしているブヴァン(家具や直しかけの車輪があり、彼は大工らしい)が映し出される。村の少年ティプー(アミン・ガーズィー)が何をしてるのか尋ねるが「教えてやるよ」の一言で、ここで手の内は見せない。次に村の広場で口笛がする。視線を注ぐ村人たちのショットがそれぞれ重ねられる中、ボールを手にしたブヴァンが広場の中央へ立つ。すっかり注目を浴びたところで、ひょいとフレーム(画面)外から例の平たいバットを担ぐのだ。
そして、ブヴァンはティプーとバッティングを始める。村人は関心ない素振りを見せるが、内心気になって仕方がない(このカットバックがまた巧い)。それでいて、ブヴァンは空振りだらけ。これではとても勝ち目がないと思った頃、ブヴァンの打撃が大きく当たる。ボールは弧を描いて空を飛び、村人たちが一心に視線で追う。鶏飼いのブーラ(ラグヴィール・ヤーダウ)など、バランスを崩してコテッと転げてしまう。ボールは丘の上の寺院の鐘にヒット! これで、神々に祝福されたようなものだ。まず寺守りのバガー(アミン・ハージー)が「オレにも打たせろ」と言い出し、その打ったボールが変人扱いされてるグラン(ラージェーシュ・ヴィヴェーク)の足下に転がり彼が加わる。
こうして、村人が次々と加わってゆくかと思えた矢先、ぞろぞろと他の村人たちが詰めかけ、ブヴァンに抗議し始める。彼らにしてみれば、ブヴァンのせいで地税が2倍どころか3倍になったようなものだからだ。再び、ブヴァンたちは近隣の村人たちとラージャーの城を訪ねるが、今度はラージャーも試合をしろ、と言う。英国の若造の鼻を明かしてやれ、というわけだ。
話は少し飛ぶが、ブヴァンがクリケットのメンバーとして真っ先にスカウトしたのは、石投げの巧いゴーリー(ダーヤー・シャンカル・パーンディー)。石投げと言っても、ゴーファンという鞭に石を挟んで腕をぐるぐる回して投げ飛ばす技で、作物をついばみに来た鳥たちを石で射落とすのでなく、石が空を切る銃声に似た音で追い払うのだ。そして、ガウリーの父で治療師イサル(シュリー・ヴァーラブ・ヴィヤス)もいつの間にか、加わっている。
爆笑なのは、最初の練習でボールを取りそこなったゴーリーが頭に来て、ボールを丘の上に遠投すると、そこにいた鶏飼いのブーラが怒鳴り込んで来る。冒頭にふたりの犬猿ぶりが描かれているのだが、ここで閃いたブヴァンが「奴が6番目の選手だ」と、ブーラにボールを投げる。すると、ブーラは反射的に、誰よりも巧くキャッチしてしまう! なんと、いつも鶏を追い掛け回しているために身に付いた技なのであった!!!
万事この調子で、鍛冶屋のアルジュン(アーキレーンドラ・ミシュラー)、土器作りのイスマイェル(ラージ・ズトシー)、軍隊時代に英国人から痛めつけられ根に持つスィークのデーヴァ(プラディープ・ラーワート)などが加わってゆく。
言わば、「インドへの道」(1984=英)の英国植民地物に「七人の侍」(1954=東宝)プラス「クール・ラニング」(1993=米)の面白さを加えたようなテイストなのである。しかも、先に見たようにエピソードがピークに達した瞬間、だらけぬよう次のエピソードがすぐに綴られ、4時間の上映時間は少しも長く感じられない。
さらに本編を彩るのが、ブヴァンをめぐる村娘ガウリー(グレーシー・スィン)と英国淑女エリザベス(レイチェル・シェリー)の淡い三角関係である。
ガウリーは幼い頃からブヴァンを慕い、本人は彼の嫁さんになるつもりでいる。しかし、当のブヴァンは、例によって彼女の想いに気付いていない(振りをしている)。
方やエリザベスは、村人を苦しめるアンドリューの妹ながら聡明なブヴァンに惹かれ、兄に逆らってまで村人たちに助け船を出そうとする。
そんなエリザベスが村までやってくると聞いて、ガウリーは興味津々どころか、英国の若い貴婦人に敵対心を抱き始める。しかも、初対面の挨拶で片言のヒンディーを話すエリザベスが間違えて「ピル・ミレンゲー(また会いましょう)」と彼女に言ってしまうから愉快。その上、ブヴァンはクリケットのロウ(ルール)を説明するエリザベスを一心に見やっていて、益々ガウリーはヤキモチを膨らます。
エリザ(ブヴァンたちは英語がしゃべれないので、彼女の名前を途中までしか言えない)と村人たちの交流も深まり、クリシュナ・ジャナム・アシュタミー(6〜7月にあるクリシュナ誕生祭。本来なら雨季の最中)の夜、彼女はブヴァンたちと丘の上の寺院を詣でる。この寺院に祀られているのはクリシュナとラーダーで、ラーダーを妃と思い込むエリザに「クリシュナとラーダーはそれぞれ伴侶を持っているが、ふたりの結びつきは決して離れることはない」とブヴァンが説明する。このクリシュナとラーダーの関係が、やがて彼女の拠り所となる・・・。
エリザベスはアンドリューに訪村が知れてもなお、隠れて単身馬に乗り、本物のクリケット・ボールさえブヴァンたちに持参する。この日、エリザは別れ際、ブヴァンに対する想いをたどたどしいヒンディーで伝えようとするが、さすがに本心までは伝えられず(時は19世紀である)、彼女は「I’m falling love with you」と英語で言い残して立ち去る。しかし、ブヴァンには何を言ってるかさっぱり判らない、というのがまた可笑しい。
一方、ガウリーは何かと世話を焼こうとするものの、昼飯にチャパティーを焼いて届けるぐらいしか出来ず、エリザとブヴァンの仲が決定的にアヤシイ、となると、チャパティーを置いて姿を消してしまう。彼が後を追うと、「もう今日から絶交よ」と言い立てる。ブヴァンは「何言ってるんだ」と動じず、「おまえはオレのもんだよ」と告げる。
そして、ミュージカル・ナンバー「o rey chhori」(振付:ヴァイバヴィー・メルチャント)となる。アーミルがグレーシーに寄り添って歌うシーンは、どこか現代劇「Dil Chahta Hai(心が望んでる)」(2001)でアーミルがプリティー・ズィンター相手に囁く「jaane kyon」とイメージがダブってしまう。
それでもこのミュージカル・ナンバーが出色なのは、ブヴァンのことを想うエリザベスが英国淑女だけあって西洋声楽スタイルで歌い出すことだろう。音楽を担当するA・R・ラフマーンは、ロック、ポップス、ワールド・ミュージックはおろか、ブルガリアン・ヴォイスまで取り込む曲作りをするが、この発想には唸ってしまう。振付も工夫されていて、後半、エリザの想いでは彼女がサーリーを着て彼と戯れたり、舞踏会で貴公子ブヴァンとワルツを踊ったりする。
エリザベスに扮するレイチェル・シェリーも、ポール・ブラックソーン同様のキャリアを持つ英国人女優である。金髪碧眼でないのは、インドの観客の好みに合わせたのか。黒髪だけあって、ミュージカル・シーンでの、ヴェールを被ったサーリー姿も違和感なく美しい。恋の想いを描くミュージカルの撮影で、いくつもの衣装やシュチュエーションを演じ分けるのは、英国人女優である彼女自身にとってもユニークな体験となったことだろう。
グレーシー・スィンは、連続ドラマ「Amaanat」に出演していたTV出身の新人女優。プリティーを古風にした顔立ちで、新人らしいつたなさが見え隠れするものの、演技には無理がない。踊りも良好で、2001年度新人賞の最有力候補であろう。
キャスティングにあたって、まず監督のアシュトーシュがスクリーン・テストし、その後にアーミルとの2人芝居がテストされ、ガウリー役が彼女に決まったのだが、アシュトーシュもアーミルも彼女のTVドラマは見ていなかったという。彼女はアーミルのデビュー当時からのファンで、家では妹が部屋に彼のポスターを貼っていたそうだ。また、1950〜60年代に活躍した美人女優ヴァイジャヤンティマーラーも彼女のお気に入りで、役作りの念頭に置いたとのこと。
華やかさもあれば、キナ臭い動きもある。
クリシュナ生誕の宴でブヴァンとガウリーの踊りを見せつけられ、嫉妬心を燃やしたラカー(ヤーシュパル・シャルマー)が英国人たちが居住するステーションへエリザベスの件を密告しに行く。アンドリューは州都の英国本営に呼ばれ、もし試合に負けたらアフリカの原野へ飛ばされることになっていたため、内通者としてブヴァンのチームに入りサボタージュするようラカーに命じる。
村へ帰ったラカーは、さっそく神妙な顔つきでブヴァンにチームへ入れてくれるよう頼むが、答えは「ナヒン(ノー)」。これは、遊びでなく地税が懸かった勝負なのだ、特技がない奴は選手に入れるわけにはいかない、と拒否される。仕方なくラカーは「走るのが得意だから」と寺院の階段を何度も往復し、ようやく仲間に入れてもらえる。
この農村と英国人のステーション・クラブとの対比も面白い。
村人たちが篝火を焚いてクリシュナを祝う踊りに興じれば、クラブではワルツの舞踏会が行われている(振付:テレンス・レウィス)。
当時、地方に赴いた数少ない英国人たちにとってステーション・クラブは、社交やスポーツ、文化の拠点となっており、しばしば英国的な教養をみにつけたインド人たちもクラブのメンバーに入りたがった。今でも都会のインド人たちにこのような娯楽施設を有した社交クラブが人気があるが、英国統治時代の名残なのだろう。
また、旱魃に苦しむチャンパネールにあって、ステーションとなる古城が緑に囲まれた高台にあるのも興味深い。米国でも、先住民を押し込めた居留区は草木もまばらなデザート地帯にあり、一歩、国立公園の敷地内に入ると豊かな緑が広がっているのに等しい。
だんだんと村人たちの闘志も固まって来て、ブヴァンたちの練習を見守る人も多くなって来た。そう感じた矢先、ブヴァンは転がったボール屑拾いのカチュラー(アディティヤ・ラーキア)に拾い投げるように言う。彼は言われた通り投げ返すが、ブヴァンの手前でスピンしながらバウンドする。またもブヴァンはピンと来て、彼を選手に加えようとする。ところが、これには村人全員が猛反対。
と言うのも、カチュラーはアウト・カーストであって、不可触民とは一緒にプレー出来ないと言うのだ。もちろん、そんなことで諦めるブヴァンではない。彼は、触るだけでも穢れるというアンタッチャブルの肩に手を掛け、「この試合は我々にとって暇つぶしや娯楽ではない。地税が懸かった生きるか死ぬかの闘いなんだ!」と村人たちを説得する。
これを受けて長老もカチュラーを仲間にすることを許可するのだが、ここで胸を打つのは、ブヴァンが滔々と人類の平等を述べるからではない。彼らの練習ぶりを偵察に来たアンドリューたちに対し、村人たち、選手たち(エリザさえも!)が、シネマスコープの横長画面一列に並んで対峙する。まさに映画の「画」の力によって、村人が一丸となった感動を伝えるのである。
さらに言えば、このシーンに来て、唐突にカチュラーが現れるのではなく、ブヴァンがティプーとバッティングをはじめた広場のシーンで、ティプーがキャッチをミスったボールの転がり先に藁屑を集めているカチュラーがちゃんと配されているのだ。その時は「これが伏線ですよ」というようなあざとい描き方はされておらず、さりとてインドの村々の環境を知ってる観客にとっては、それと判るような、ほどよい演出なのに感心する。
クライマックスは当然、クリケットの試合となるが、なんと試合のシーンだけでも全体の3分の1、優に1時間以上ある。それもそのはず、クリケットの伝統的な試合は5日間も続く(!!!!!)というし、プロ・ツアーでさえ3日間かかる。おまけに、間には昼食やティータイムが入る! まさに暇を持て余した貴族でなければ出来ず、なるほど紳士のスポーツと呼ばれる訳である。
第3幕には、内通がバレたラカーが逆に奮闘したり、不可触民のカチュラーが活躍して皆から抱きしめられるなど、各選手のエピソードが山のようにちりばめられており、それを抜き出すだけでも3日かかるほどだ。クリケットのボールは石のように硬いのだが、英国チームには野球で言うボークを得意とするボーラー(投手)がいて、村人チームのバッツマンを次々負傷させてゆく。こういう非紳士的な行為が現在でも許されるのか判らないが、平然とアンフェアなところが英国の統治政策を感じさせる。
試合シーンは、撮影に40日も要しただけあって、クリケットの生中継を見ているような迫真に満ちている(もちろん、映画的なカット割りがなされている)。なまじっかな撮影でお茶を濁していたら、これだけのメガヒットにはならなかっただろう。
この試合シーンが臨場感あふれ、興奮させられるのは、望遠レンズやマルチ及びシンクロ撮影による効果だけでなく、フィールドを取り巻く群衆の昂揚によるところが大きい。
映画の撮影は、実に単調である。キャメラとライティングを決めるまでに時には数時間要す。同じ芝居が何度もリテイクされる。キャメラのアングルを動かす度に、一度決められたセッティングはバラされ、新たなライティングに時間が費やされる。高倉健も「役者は待つのが仕事」と言っていたくらいだから、エキストラや見学者にとってはむしろ退屈にさえ思えるだろう。
そのような飽きっぽい素人エキストラを40日間も「今まさに行われている試合を観戦して沸き立っている」ように白熱させるのは、至難の業である(蛇足だが、モブ・シーンの演出はサードやフォースの助監督が行う。これらのノウハウを蓄積しているのは、やはりハリウッドであり、映画撮影以外でもユニバーサル・スタジオ・ハリウッドの「ウォーターワールド・ザ・ライヴ・シー・スペクタクラー」などのステージにも活かされていた。また、黄金期の東宝特撮映画で怪獣の出現により家財道具を担いで避難するエキストラの中には、大部屋の俳優が混じっていて、ちゃんと芝居しながら逃げていた)。
ラストは、恵みの雨。2年ぶりの雨に濡れ歓喜する村人たちと、雨粒を避けクラブハウスの軒下へ逃げ込む英国人たちが対象的で、英国人たちと共にしているラージャーの複雑な表情がまた佳い(本当はインド人らしく雨の中に跳び出してゆきたいのだ)。
監督は「Baazi(賭け)」(1994)でアーミルと組んだアシュトーシュ・ゴーワリカル。デビュー作「Pehla Nasha」(1993)でもアーミルが特別出演している。
はじめ、アシュトーシュが本作のアイディアを聞かせた時、アーミルはピンと来なかったそうだが、4ヶ月後にアシュトーシュが練り上げた脚本を見せると大いに乗り氣になったという。劇中の年代も、1947年、1928年、そして1893年に変更された。1947年は印パ分離独立(そうであったら「Gadar」と真っ向から対立していた)、1928年はガーンディーらによる民族主義が高まっていたから、政治的、独立闘争的なエピソードが増えていたはずで、「農民がクリケットの試合で英国を負かす」というプロットにうまく絡めることができなかったのだろう。
アーミルが自己プロデュースに乗り出した経緯は、アシュトーシュの前2作が共にハリウッドのイタダキで、しかもあまりヒットしなかったため、彼のオリジナル脚本を映画化することに既存のプロデューサーたちが難色を示したためだ。その上、ボリウッドには歴史物、農民物、地方物、スポーツ物は当たらない、というジンクスがあり、「常にリスクを冒す」をモットーとするアーミルが、ならば自分でプロデュースするしかない、と決意。夫人であるレーナー・ダッタも、名目上だけでなく実際にエグゼクティヴ・プロデューサーとして業務を取り仕切って奮闘した。
完全主義者として知られるアーミルが目指した物は、ワールド・マーケットに通用するクオリティ。各部門にトップ・クラスのスタッフを結集、グジャラート州ブージー郊外に完璧な村のオープン・セットとクリケット・フィールドが作られ、2000年1月から6ヶ月間、朝5時起床、眩しくて目を開けてられないほどの陽光の中、日没まで撮影が続けられた。スタッフ・キャストはロケ地にカンヅメにされ、宿舎もほとんど村人と同様な暮らしで、グレーシーなどかなり参っていたらしい。ボリウッドでは「Lagaanチームは、ブージーの監獄で撮影している」と噂されていたほどで、実際、アーミルは携帯電話の持ち込みも禁止していたという(単に圏外? さすがに日曜日はオフだったらしい)。
アーミルはインターナショナル・クオリティのため音楽をA・R・ラフマーンに発注しているが、注目すべきスタッフは、衣装デザインのバーヌ・アタイヤーである。
彼女は、「ガンジー」(1982=英印)でインド唯一のオスカー受賞者となり、「Lekin(けれど・・・)」でナショナル・アワードも受賞。グル・ダットやラージ・カプールらの映画でも衣装を担当し、近年は「Dr.Babasaheb Ambedkar(アンベードカル博士)」(2000)の他、IMAX作品「Land Of The Tiger」、マラーティー演劇「Ranangan」なども手掛ける。ファッション総合誌のインタビューによると、アシュトーシュの子細に富んだ脚本を1999年5月に受け取り、9月から制作に着手。彼女はアーミルによってロンドンへ送られ、英国人キャストの寸法取りや軍服の階級章に至るまで細かくリサーチしたという。
キャストは、ラージャー・プーラン・スィン役のクルブーシャン・カールバンダー以外、メジャーな俳優は極力避けられたかのような印象を受ける。その代わり、個性的なサポーティングが揃い、結果として成功している。
ブヴァンの母親ヤーショーダマル役には、「Dil Chahta Hai」でアクシャイ・カンナーの母親を演じたスハーシニー・ムーレイ。鶏飼いブーラ役のラグヴィール・ヤーダウは、「サラーム・ボンベイ!」Salaam Bombay!(1988)、「ディル・セ 心から」Dil Se.. (1998)、「Tarkeib(方法)」(2000)に出演。
その他、「女盗賊プーラン」Bandit Queen(1994)でプーランを助ける盗賊仲間ムスタキームを演じたラージェーシュ・ヴィヴェークが変人グランを、「Grahan(日蝕)」(2001)でマニーシャー・コイララの花婿役、「O2K4」(2001)でシャー・ルク・カーンの部下役だったラージ・ズッシーが土器作りのイスマイェルを、「Tarkeib」の犯人、アキーレンドラ・ミシュラが鍛冶屋のアルジュンを演じている。
また、オープニングとエンディングのナレーションは、シュリー・アミターブ・バッチャンの美声が味わえる。
演出上、気になる点は、クリケットを偵察へ行ったブヴァンたちにエリザベスが接触するシーンと、ラカーの内通をエリザベスが目撃するシーンがナレーションで処理されていることぐらいだ。ブヴァンたちがグラウンド脇に突っ立て話を続けていては試合中のアンドリューに怪しまれるだろうし、ナレーションの件は、なくても画のつながりでじゅうぶん理解できる(アシュトーシュは時間を少しはしょりたかっただけかもしれない)。
ただ農村が舞台と言っても、冒頭で大麦による地税を納めるシーンがあるだけで、農作物に世話を焼く描写はないし、村人たちの生活ぶりも職工が中心なので、肝心のラガーンは誰が作ってるの? という疑問は残る。
公開が重なった「Gadar」とは、ムンバイーにおいてはわずかに優位を保っていたが、サテライトTVのZEEネットワークを背景に持つ「Gadar」とはローカルでの配給規模に差が生じたようで、興行的にはかなり引き離されて2位の座に留まり、13週でボックスオフィス戦線から離脱している。それには翌月にアーミルの新作「Dil Chahta Hai」がリリースされ、ヒットを続けた影響もあるだろう。
ワールド・マーケットで通用するトップ・クオリティとは言え、4時間という上映時間と馴染みの薄いクリケットを題材にしているため、当然ながら日本公開は難しい。
追記(04.10.22)
ブヴァンの母親ヤーショーダマル役のスハーシニー・ムーレイは、「Bhuvan Shome(ブヴァン・ショーム)」(1969)にヒロイン「ガウリー」役で出演。ウトパル・ダット扮する主人公の名がブヴァン、さらにナレーションを担当しているのが本作と同じくアミターブ・バッチャン! このへんにアーミルとアーシュトーシュの粋さを感じる。
(一方、エリザベスの名は英国女王に由来。女王が植民地の農民に惚れるというだけでなく、本来、女王陛下の臣下であるアンドリューが「エリザベス」に逆らう、というアイロニーも??)
ガウリーの父親イシュワール役、シュリー・ヴァラーブ・ヴヤスは、「Abhay(アブヘイ)」(2001)の精神科医など嫌みな役どころが多いが、本作では口髭とロン毛メイク、村人らしく日焼けし、いつもの不健康そうな印象を拭い去っているため、それとわかりにくい。
DVD日本版(リージョン2)がソニー・ピクチャーズ・エンタテイメントから「アルターフ 復讐の名のもとに」Mission
Kashmir(2000)と共に発売されている。「アルターフ」と異なり、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたこともあり、ジャケットには「インド歴代興行成績トップ10入りを記録!」、「インドの国民的スター、アーミル・カーンが自ら製作・主演」などと記されている。また特典映像として、未公開シーン、フィルモグラフィ、オリジナル劇場予告編集(「ラガーン」、「アルターフ」、「ガンジー」の3本)が収録されている。
劇場予告編は「オリジナル」とはいうものの、米国公開向けにコロンビア・トライスターの冠が施されたもので、インド国内向けのオリジナルではない。余談になるが、アカデミー賞を受賞した「戦場のピアニスト」(2002=仏・独・英・ポ)も日本公開は英語版によるもので、ロシア人がポーランド人に英語で汚い四文字言葉を浴びせるなど違和感があったが、主演のエイドリアン・ブロディ以外の家族は吹き替えられており、欧州4カ国合作映画のオリジナル版が何語で製作されたのか氣になるところだ。
未公開映像のシーン・ナンバーは不明だが、エリザベスがブヴァンの気を引くため、英国製の球具を一式、村に届けるシーンから、エリザベスが密告者の姿を目撃、翌日、それを告げられたブヴァンが村の男達を問い質しているところにアンドリューが現れ、ブヴァンたちを球具窃盗の罪で逮捕、その後、上官の命令で釈放されるまでのシークエンス。
まずエリザベスが届けるシーンでは、球具を入れたバッグには王家の紋章が刺繍されており、細部のこだわりが見て取れる。
この時、ヤーショーダマルが異国人のエリザベスを愛でる芝居があり、本編のラストで村を立ち去るエリザベスとヤーショーダマルの情交が唐突に感じられたのも、ここに描かれていたそれがカットされていたためと納得。
また、エリザベスの援助は無償の行為ではなくブヴァンへの想いの表れなのだが、彼は氣が回らず、そのお礼に何かを申し出る。エリザベスは彼が首から下げたお守りを所望するのだが、それを見たガウリーがやたらと嫉妬し、ブヴァンを余計にヤキモキさせるのが可笑しい。
この短いシークエンスはなかなか愉快なので、すでに4時間弱の長尺なのだから今更切らなくてもよさそうなものだが、後に続く密告者の摘発シーンは、村の真ん中にチーム・メンバーを並べてエリザベスが盗み聞きした台詞を皆に言わせるという描き方で、確かにストーリー展開を鈍らせる。
ただアンドリューらが馬で村に乗りつけ、ブヴァンたちを球具窃盗の罪で逮捕するだけでなく、エリザベスを内通者に見立て、村人たちとの親交を断とうとするアイディアは佳い。もっともこの行為は上官の知れることとなり、即刻ブヴァンたちは釈放。試合にも、本営から審判が派遣される結果となる(ただし、試合は半月繰り上げ)。
これをはしょった本編では、ラカーの密告がエリザベスに目撃されるシーンがをアミター・ジーのナレーションで、審判が派遣されたことを試合の進行を観衆に説明するジャーヴェード・カーンのアナウンスで補っている。
「未公開」シーンがインサートされていたのは、ブヴァンのペンダントからして、おそらく訓練ナンバー「Chale Chalo」(チャプター31)と試合開始(C32)の間であろう。もっとも、エリザベスの方はブヴァンからもらったペンダントを身に付けているシーンはなく、密告者を目撃するシーンで手に握りしめているらしき描写があるだけ。クリシュナの正妻になれなかったラーダーに心情を重ねて生涯寡婦で通すのであれば、ラストの別れぐらいは身につけて欲しかったものであるが。
本作はアカデミー外国語映画賞にもノミネートされ、NRIが多く居住する英・米・豪・シンガポールのみならず、スペイン、スイス、ドイツの他、北欧3カ国、アルゼンチンなどでも公開された模様。ただし、各国でもっとも多かった評価は「長い!」
日本版DVDは、一部画面に傷が入るものの良好な画質であり、松岡環女史による字幕翻訳付きで安心して鑑賞できるが、海外流通版に比べると値段がいささか高い上、ソング別キャプチャーが設定されていないなど不満が残る。
しかしながら、店頭で在庫を目にした際には即押さえておくとよいだろう(初回プレスで終わるだろうから??)。
*追記 06.01.23
本作のエグゼクティヴ・プロデューサーでもあるレーナー・ダッタとアーミル・カーンは、各国の映画祭で本作が喝采を浴びていた裏で別居、2002年に離婚。アーミルは本作でアシスタント・ディレクターを務めていたキラン・ラーオと本年1月1日に結婚。駆け落ちまでして結ばれたアーミルとレーナーだったが、さすがに内助の功で尽くしている本作撮影中に熱愛されては、レーナーの怒りは鎮まりようがない。彼女がムスリムであれば、キランは第2夫人ということで丸く収まったのかもしれないが。
*追記 06.05.30
監督のアーシュトーシュ・ゴーワリカルが俳優時代に出演した「Chamatkar」(1992)では、彼が悪役として登場。クライマックスは、なんとクリケットの試合で、彼らがボークなどの反則技で怪我人を続出させている! 主演はデビュー間もないシャー・ルク・カーンで、田舎の小学校教師という設定。このつながりが「Swades(祖国)」(2004)へと発展したのかと思うと楽しい。
*追記 07.04.17
後半、スポットが当たるカチュラー役のアディティヤ・ラーキアは、第7回福岡アジア映画祭1993にて上映された「勝者アレキサンダー」Jo
Jeeta Wohi Sikandar(1992)で、ボンクラ学生アーミル・カーンの取り巻き役で出演。出番が多い割には台詞は少なく、弱い印象がどことなくカチュラーに通じる?
また、ジャティン-ラリットの手による「pehla nasha」(サーダナ・サルガム/ウディット・ナラヤン)も耳に残る。