I Hate Luv Storys(2010)#230
製作:カラン・ジョハール、ヒルー・ジョハール、ロニー・スクリューワーラー/原案・脚本・台詞・監督:プニート・マルホートラ/撮影監督:アヤナンカ・ボース/作詞:アンヴィター・ダッタ、クマール、ヴィシャール・ダドラーニー/音楽:ヴィシャール&シェーカル/背景音楽:サリーム-スレイマン/振付:ボスコー・カエサル/VFX:ピクシオン/衣装監督:マニーシュ・マルホートラ/特別な衣装デザイン:ゴーピカー・マルカン/プロダクション・デザイン:アムリター・マハル・ナカイ/編集:アキヴ・アリー
出演:イムラーン・カーン、ソーナム・A・カプール、サミール(Sammir)・ダッターニー、サミール(Samir)・ソーニー、ケヴィン・デイヴェー、ブルナー・アブドゥーラー、ケートキー・デーヴェー、アンジュー・マヘンドル、シレーシュ・シャルマー、クシュブー・シュロフ、アシーム・ティワリ
特別出演:アーミル・アリー、プージャー・ガイー
公開日:2010年7月2日(年間10位)/129分
2011年3月25日/26日:沖縄国際映画祭上映「I Hate Luv Storys」
STORY
売れっ子映画監督ヴィール(サミール・ソーニー)のアシスタント、ジェイ(イムラーン)は恋愛映画嫌いながら、映画館で出会った若き美術監督のシムラン(ソーナム)にひと目惚れ。しかし、彼女にはラージ(サミール・ダッターニー)という婚約者がいて…。
Revie-U
冒頭流れるは、今もロングランが続くシャー・ルク・カーン N カジョール「DDLJ」(1995)、アーミル・カーン N プリティー・ズィンター「Dil Chahta Hai(心が望んでる)」DCH(2001)、サイーフ・アリー・カーン N ラーニー・ムカルジー「Hum Tum(僕と君)」(2004)からのクリップ。
ちなみに予告篇で聞き覚えのある台詞は「Mohabbatein(幾つもの愛)」(2000)からナンバル「aankhein khuli」におけるシャー・ルクの口上。
撮影所を舞台にした「Om Shanti Om」オーム・シャンティ・オーム(2007)以降、それまでもしばしば見られた映画界絡みの設定が加速化、ほとんど意味なくフィルミーワーラー(映画人)が登場、ネタに困ったら映画ネタ…と思えたほど。
この流れが収束に向かったかに見えた今、主人公ジェイは映画監督のアシスタント、ヒロインも美術監督となっている。

(C)Dharma Productions Pvt. Ltd. 2010.
そのヒロイン、ソーナム・A・カプールはソー・クール! もちろん、本作の見どころは彼女のすべて。ただし、いわゆるボリウッド・ダンスはなし。
本作でクレジットされているミドル・イニシャルは、父親アニル・カプールのAだろう。
英語圏の旧姓+家名と異なり、本作の製作者ヒールー・ジョハールも「Kurbaan(犠牲)」(2009)では亡き夫ヤシュの名を加え、ヒールー・ヤシュ・ジョハールとクレジットしていた。

(C)Dharma Productions Pvt. Ltd. 2010.
一方、ジェイに扮するイムラーン・カーンは、アーミルの甥っ子。「Qayamat Se Qayamat Tak(破滅から破滅へ)」(1989)でアーミルの幼年期を演じ、アーミルが製作した「Jaane Tu…Ya Jaane Na(わかる? わからない?)」(2008)で本作デビュー。
第2作「Kidnap」(2008)ではサンジャイ・ダットを向こうにまわし魅せ切っていたが、昨年はディピカー・パドゥコーン共演「Break Ke Baad」(2010)がフロップと、ほぼ同時期にデビューしライバル視されるランビール・カプール(父はリシ・カプール、従姉妹がカリーナー・カプール)が演技面で大きく認知されているのに比べ、今ひとつ押しが足りず、劣勢な感は否めない。
劇中、映画監督のヴィールが「ジェイ、おまえの名前はジャイじゃないよな?」と言うのは、無論、国民映画「Sholay」炎(1975)でダルメンドラとアミターブ・バッチャンが演じた無二の親友、永遠のパートナー、ヴィールとジャイに掛けてのこと。つまり、主人公ジェイはジャイではないので、仲が良くないという訳。
もちろん、ヒロインの役名がシムランなら婚約者がラージというのも「DDLJ」に対応した基本事項だ。
そして、オープニングで出会う前の交互のナレーションは「Dil To Pagal Hai(心狂おしく)」DTPH(1997)のシャー・ルクとマードゥリー・ディクシトの継承、ジェイが友人クナールの悪ふざけでブラインドと紹介されるのも昔からあるヒンディー映画の手法。
監督のプニート・マルホートラは、「家族の四季」Kabhi Khushi Khabhie Gham…(2001)の助監督上がりで、言わば「たとえ明日が来なくても」で監督デビューを果たしたニキル・アドヴァニーの後輩にあたる。「Paheli(謎めいた人)」(2005)で助監督に付いた後、5年後にようやく自作脚本で監督へ昇格となった。演出的には可もなく不可もなくといったところだが、ややギミカルな効果音が多い嫌いがある。
親方カラン・ジョハールへの鬱憤?が本作の脚本に活かされているかどうか氣になるところ。
そのカランが手がけるプロデュース作品は、どれも新人監督を起用。「たとえ明日〜」が自作脚本だったため、過剰に入れ込んだ反省からか、以後、自作脚本を他人に演出させるのは「Kuch Kuch Hota Hai」のアニメ版「Koochie Koochie Hota Hai」(2011)だけに留めている。
映画の中で撮影しているヴィールの監督作「Pyar Pyar Pyar…(愛、愛、愛…)」は、本作のロニー・スクリューワーラー(UTV)製作「Dhoondte Reh Jaoge」(2009)同様、過去ヒット作の継ぎ接ぎ。ヤシュ・ラージ・フィルムズからアディティヤ・チョープラー監督「DDLJ」+「Rab Ne Bana Di Jodi(神は夫婦を創り給う)」(2008)、ヤシュ・チョープラー監督「DTPH」、カラン・ジョハール「Kuch Kuch Hota Hai」KKHH 何かが起きてる(1998)+「Kabhi Alvida Naa Kehna」さよならは言わないで(2006)、これにイムラーンの伯父にあたるアーミル主演「DCH」と、交友関係のオン・パレード(ジェイがミスをしたウエイターを殴りつけないでハグするのも「DCH」からの引用)。
パロディと言えば聞こえはいいが、さすがにここまでお手盛り感が漂うと、過去の遺物を食い潰しているような寒さを感じてしまう。
いわゆる脇役は、シムランの母役ケートキー・ダーヴェーくらい。グジャラーティー出身という設定ながら、いつものようなパッルー(アクセントとなる柄のある端)を右肩にまわしたグジャラーティー・スタイルのサーリー姿でなく珍しくカジュアルなパンジャービー+ジーンズで、いつになく普通のキャラクター。
父親役シリーシュ・シャルマーは実に物解りが良さそうで、ジェイの母親など電話で必要な時だけ登場するほど。今どきのインドではこんなウェスタナイズされた非干渉の便利な両親像が求められているのだろうか。

(C)Dharma Productions Pvt. Ltd. 2010.
ソーナムとランビール以外の若手俳優も影が薄く、婚約者ラージ役サミール・ダッターニーもそこそこ整ったマスクをしているものの、ハナっからフラれそうな、南アジア風に言えばナマク(塩)が足りない、すなわち味氣ない男。
これは「KKHH」のサルマーン・カーン、「DTPH」のアクシャイ・クマール、「Mann(想い)」(1999)のアニル・カプールなどのようにヒロインを奪いそうになるも最後はお約束として身を引くライバル出演とは異なり、勝負にならない前提。
「Band Baaja Baaraat(花婿行列狂騒楽団)」(2010)もそうであったが、恋愛するカップルにフォーカスした邪魔の入らないストーリー展開は今風。
ラヴ・ストーリーとしては、引用先の<オリジナル>に迫る覇氣がなく、乗り越えるべき物が不在という<トレンディー>な作りが大いに氣がかり。
また、他愛もないシーンのために敢行したニュージーランド・ロケ含めゼロ年代を引き摺ったテイストは、時代を先鋭的に読み取り早くも10年代の流れに照準を合わせたヤシュ・ラージ・フィルムズと比べるとユルく思え、「Kurbaan」以降、制作が遅れた「マイ・ネーム・イズ・ハーン」My Name is Khan(2010)を含め、どこかカランのダルマ・プロダクションは後手にまわっているように思う。
もっとも、それがプロデューサー氣質のアディティヤと、元々作家的感覚の強いカランの違いとも言える。
「ピャール(ヒンディー語で愛)」はゼロ年代に入って「Pyaar」と綴るのがスタンダード。劇中映画のタイトルが90年代風の「Pyar Pyar Pyar…」となっているのは時代遅れの臭いラヴ・ストーリーという意味合いから(「愛、愛、愛…」はアラビア語で愛の複数形をタイトルにした「Mohabbatein」の陳腐さを揶揄してる?)。
エンディングに出る「Its not a love story…its saga.」というテロップも「Company」(2002)の劇中で撮影しているマサーラー・ラヴ・サーガ「Pyaar Pyaar Mein(恋に埋もれて)」を彷彿とさせる。

(C)Dharma Productions Pvt. Ltd. 2010.
それでも年間10位に食い込んだのは、やはり旬の魅力を放つソーナムの功績か。
(付記)
シムランの部屋はじめ、エレガントなセット・デザインは、さすがボリウッド。日本のトーク/バラエティ番組のセンスが感じられない雑然としたスタジオ・セットもこれに見倣って欲しいものだ(第一、地震の時に物が四散しそうで危ない…)。