Home » DVDレビュー

Yeh Raaste Hain Pyaar Ke(2001)#222

2011.03.08
オススメ度 =陳腐 ★★=退屈 ★★★=平均点 ★★★★=面白い! ★★★★★=お気に入り!!

Yeh Raaste Hain Pyaar KeYeh Raaste Hain Pyaar Ke(愛の道標)/2001 ★★★☆ 01.10.02

原案・監督:ディーパック・シヴダサーニー/撮影:ラージャン・キナギ/音楽:サンジーウ・ダルシャン/詞:アナン(=アーナンド)・バクシー

出演:アジャイ・デーヴガン、マードゥリー・ディクシト、プリティー・ズィンター、ヴィクラム・ゴーカーレー、ラジーヴ・ヴェルマー、キラン・クマール、ティクー・タルサニア、ブリージ・ゴーパル、ディープ・ディローン、スミター・ジャイカル、ジャイシュリー・T

特別出演:サニー・デーオール

公開日:2001年8月10日(日本未公開)

STORY
車泥棒のヴィッキー(アジャイ)サークシー(プリティー)は、結婚を約束した仲。しかし、盗難車組織のトラブルに巻き込まれ、ヴィッキーは彼らに轢き殺されてしまう! と思ったら、翌日、彼は見知らぬ町マナリで豪邸に住むプラタップ(ヴィクラム)の息子ローヒト(アジャイ)と間違われる。しばらくローヒトになりすましたヴィッキーだが、彼には結婚したばかりの妻ネーハー(マードゥリー)がいると知り、身のうちを告白。しかし、意外にもプラタップは死んだ息子になりすまして欲しいと依頼。実は、新婚旅行に出かけたローヒトは轢き逃げにあって死亡、それを目撃したネーハーはショックのあまり記憶を入れ違えてしまったのだった。金になるからと氣軽に引き受けたヴィッキーだが、ローヒトが自分の身代わりとなって死んだことを知り、罪の意識を感じて身代わりを止められなくなってしまう。一方、サークシーは、彼女の母親に取り込んだ盗難車組織の連中が縁談を仕掛けて…。

Revie-U *結末に触れています。
オープニング・エピソードは、競馬場でプリティー・ズィンターがキザなアジャイ・デーヴガンに付き纏われ、助けを求めた梅津栄風メイクのティクー・タルサニアらベンツを頂いてしまう、というもの。ふたりは詐欺師兼車泥棒と判るのだが、カモにされるティクーだけでなく、観客そのものを欺く演出はちょっとわざとらしく古く感じる。

ちなみに競馬場ということで、プリティーはオードリー・ヘップバーンを意識した衣装。ティクーは定番通り、後半も登場して2度車を盗まれる。

この後、高級車を盗難しまくるタイトル・ミュージカル・ナンバーyeh raaste hain pyaar ke(これが愛の道)」へ突入。歌いながら車を盗むとは「60セカンズ」(2000=米)を軽く凌駕。このシーンはマレーシア・ロケで、バックグラウンド・ダンサーに東洋系を起用、いつものダンス・シーンとは少々趣が異なる。ジャスピンデール・ナールラーのファンキーな歌声が耳に残るが、コーラスによるサッド・ヴァージョンも佳い。

ヴィッキーたちは、欲をかいた組織に追われ、駅に逃げ込んだ彼と入れ違いで出て来た二役のローヒトが轢き殺されてしまう。 この事故現場が一種「羅生門」(1950=大映)めいて、ヴィッキー、サークシー、ネーハーの三者三様で受け止められ、ストーリーに弾みをつける。

事故現場に駆けつけたサークシーはヴィッキーが死んだと思い込み(よく見れば、服が違う)、ネーハーは目の前で新郎ローヒトが轢き殺された極度のショックから「彼は死んでいない、事故も見ていない」と記憶を書き換えてしまう! そのため、ローヒトの遺体に駆け寄ったサークシーの姿も「見ていない」のだ。

一方、ヴィッキーは行き先も判らぬ長距離バスに飛び乗り、翌日目が覚めてみれば、ヒマラヤ・リゾートのマナリ(シムラーより先)に辿り着いていた。見知らぬ町で人々から挨拶される上、警官さえ彼を誰かと見間違いしているので、図に乗って車で送ってもらうと豪邸に連れて行かれる。家人はほとんど留守で、最初に顔を合わせた年老いた祖母も彼を見間違う。ヴィッキーは自分と瓜二つのローヒトが写った写真をみつけ、しばらくなりすますことにする。

次に使用人が3人ほどやって来て、彼に挨拶するが皆ひどく酔っている。何事かと思えば、シヴァの大祭シヴァラートリーを祝うため、ソーマ酒ならぬバングー・ジュースの大盤振る舞い! さすがヒマラヤのお膝元だけある。ここでミュージカル・シーンとなるのだが、なんとシヴァ寺院のオープン・セットは「ベン・ハー」(1959=米)級! シヴァ神像も高さ10m、背後のアーチはさらに高く、人々がぎっしり埋め尽くしている。ちょっとした学校の校庭ほどある寺院の中庭で黄色、赤、青・・・いろとりどりの衣装を着たダンサーが総勢500名ぐらいで乱舞する! もちろん、このオープン・セットはこのシーンのみ登場だ。

翌朝、ベッドで寝ているヴィッキーを見て、主のプラタップは不審に思い、友人のドクターを呼ぶ。ヴィッキーは、ローヒトが結婚していることを知ることになる。花嫁衣装(着飾ったサーリー)姿の新妻ネーハーが、マードゥリー・ディクシト。ここで、手に負えなくなったヴィッキーは正体をプラタップに明かすが、逆に大金を積まれ、彼女が立ち直るまでしばらくローヒトになりすますことを頼まれる。元々、詐欺師のヴィッキーだけに断る理由はない。二役、そして、二人の結婚相手と、よくある話をミックスした話の作りだが、同じく二役なりすまし物Chhupke Rustam(大勇者)(2001)よりもしっかりしている。

プラタップ役のヴィクラム・ゴーカーレーは、ミモラ 心のままにHum Dil De Chuke Sanam(1999)でアイシュワリヤー・ラーイの父親を演じていた人。威厳があって、どこか人を信用しない、力で人を支配しようとするキャラクターだが、本作ではヴィッキーを不審に思いつつも、亡き息子を思い、忘れ形見となった嫁ネーハーを氣にかけ続ける父親像そのものとなっている。

このプラタップの語りで、ローヒトとネーハーが結婚するまでの回想シーンとなる。ふたりは小学校の同級生で、仲のよい幼なじみ。ローヒトが卒業生の講演を頼まれ、ネーハーと再会。ふたりは恋に落ち、即結婚しようとする。実はネーハーには親の決めたフィアンセがいて、このライヴァル役の特別出演がサニー・デーオール。アジャイ主演作にサニーがゲストというのも凄く濃いキャスティングである。サニーはDarr(恐怖)(1994)の頃よりダンスが上達しているが、これは振付の効果も大きい。

Dhadkan(鼓動)(2000)でもシルパー・シェッティーの父親を演じていたキラン・クマール扮するラーンジャーンがこれまた反対。ネーハーは家出同然にローヒトと結婚、事後報告の形で家に電話すると、案の定勘当を言い渡される。それを知ったプラタップは、ネーハーを自分の娘として受け入れることを誓う。そんな入り組んだ事情もあって、新婚早々のネーハーはローヒトの死を書き換えてしまうわけで、説得力はある。

ただ、この時点でローヒトが死んでから2日後の朝になるわけで、その間、プラタップはデリーへ出かけ、検死に立ち会い、ショックで倒れたネーハーをCTスキャンにかけて検査したりしなければならないので時間的にはギリギリだ。まあ、バングージュースに酔ったヴィッキーが何日か眠り込んでいた、ということかも知れないが…。

さてサークシーはと言うと、ヴィッキーの死を間の当たりし、ひたすら悲嘆に暮れている。彼女の母は強欲で、父親を尻に敷いていて、出かける時もスクーターを運転するのは母の方。父は後ろに申し訳なさそうに座る。氣弱な父はサークシーの心情をよく理解していて、彼女の望む相手と結婚させたい、と思っている。結婚相手を間違えると不幸になるぞ、と我が身で知らせるようなカットもあり、このへんの演出も細かく行き届いている。

粗っぽい展開がいかにもマサーラーだが、監督のディーパック・シヴダサーニーの演出は、嫁に行ったネーハーの娘としての気持ちや、亡き息子の忘れ形見となった嫁に対する義父プラタップの思いなど細かいところに氣が配られている。これがあるからこそ、荒唐無稽なストーリーにもエモーションが付いてゆくのだ。

さて、孫のローヒトが実は死んでいたと知った祖母がガネーシュに嘆き、デリーではサークシーが自宅のガネーシュに祈っている。すると、死んだと思っていたヴィッキーが生きて現れ、彼女は深く感動するのだ。これもシヴァに並んで力のあるガネーシュだけに、大いに感情を揺さぶる。ヴィッキーは事情を説明に彼女を訪ねたわけだが、話しながら駅まで歩いてゆくと、その場で彼がバスに飛び乗って助かり、一方でローヒトが身代わりとなって死んだことがモンタージュされる。罪の意識を痛感したヴィッキーは、これを運命的なものと受け止め、またまたローヒトの身代わりを続けてしまうのだ。

マードゥリーが、この記憶を書き違えた新妻ネーハーを好演している。さすがに年齢を感じさせるようになったが、マードゥリーはまだまだ美しく、そして、演技力は確かだ。何も「知らず」純粋無垢に振る舞うネーハー、それ故、彼女の哀しさが醸し出される二重の芝居は並みの女優にはできまい。

さらに事態を複雑にするかの如く、勘当したはずのラーンジャーンがプラタップの屋敷を訪ね、ネーハーと和解し、花嫁側の結婚披露宴を行う。こうして、ヴィッキーはますます身が引けなくなってしまう。その上、サークシーに縁談が持ち込まれ、相手はなんとローヒトを殺した連中だ。もちろん、口封じのためである。

それを伝えに、サークシーは「友人」を装って、プラタップの屋敷を訪ねる。帰宅すると、彼女がいるのでヴィッキーは驚くが、すべて事情を知っているプラタップの計らいでふたりは別のゲストハウスへ行く。この「事情を知ってる」プラタップの配慮というのが佳い。

サークシーの緊迫した状況に彼女と結婚すること決意したヴィッキーは、その晩、すべてをネーハーに告白するが、話し終えてみると、なんとネーハーは眠り込んでいる。笑い話のようだが、心理学的に見ても記憶を書き換えたのと同様に、無意識に耳を閉ざして眠り込んでしまったわけだ。

テラスに出たヴィッキーに起きてきたネーハーが話の続きをせがむ。聞き終えた時、彼女は窓から飛び降り自殺を図るが、これはヴィッキーの幻想で、これにより彼が真実を話せなくなってしまう、という風にうまく押さえ込んでいる。

なかなかどうして、ヤキモキさせられる。ジェットコースターのような前半といい他愛ないストーリーながら、思いも寄らぬ展開が次から次へと起こり、よくできたマサーラーの見本の様だ。ローヒトに扮するヴィッキーが煮え切らない気もするが、これも観客をじらすためだろう。ただし、マードゥリーの微妙なトーンに対し、アジャイの実力からすると芝居が単調に思え、作品の質を一歩留めている。

そして、「ローヒト」の誕生日パーティーのシーン。すでに死んでいるローヒトの誕生日を祝うのだから、事情を知っている連中にとっては甚だ心苦しい限りだ。ここでも、ひとり、ネーハーだけが天使のように振る舞う。音楽のサンジーウ・ダルシャンもそのへんを考慮して、それぞれの氣持ちが交差する輪唱で提供。マードゥリーがピアノを弾けば、プリティーがストラトキャスターをつま弾いてしまうのには、思わず唸る他ない。

クライマックスは、組織の連中が乗り込んで来ての血まみれアクション。翌日、サークシーが別れの手紙を寄越したすぐ後、殴られた彼女がヴィッキーたちの足下に放り出される。このトートツ感は典型的なマサーラーだ。ここでヴィッキーが轢き殺されそうになり、ネーハーは「ローヒトの死」を現実として受け止め再び卒倒。

ラストは、立ち去ろうとするサークシーをローヒトの死を受け入れたネーハーが呼び止め、ヴィッキーはサークシーのもとに、ネーハーにはサニー・デーオールが付くというオチ。このシーンに現れたマードゥリーはシンドゥールを落として喪に服したメイクとなっている。ただ、サーリーは限りなく白く近いが胸から下にかけて薄く燻し銀のグラデーション。本来なら白いサーリーでなければ喪服にならないのだが、撮影当時、新婚早々だったマードゥリーへの配慮だろう。

ちょい古いセンスが、新世代の先走った「洋画」テイストと比べると、居心地の良さを感じてしまう。マードゥリーが結婚したとは言え、同時期公開の新人映画Pyaar Ishq Aur Mohabbat(恋、ロマンス、そして愛)(2001)、Hum Ho Gaya Aap Ke(私はあなたのものに)」(2001)に差を付けての動員。ムンバイーではぼちぼちだが、地方によっては2週目の入りが伸びており、まずまずの成績。

なんだかんだと言われるマサーラーだが、観客を楽しませる要素はたっぷりなので、今後もこの手の話は作られてゆくだろう。

*追記 2011,03,08
プリティー演じるサークシーの強欲伯母役ジャイシュリーTは、60年代後半〜70年代にかけて、かのヘレンと並び賞された踊り子女優。
シャー・ルク・カーン主演Om Shanti Om」オーム・シャンティ・オーム(2007)のフィルミー敬愛ナンバルdhoom tanaで、ディピカー・パドゥコーンが合成された過去フィルムのジーテンドラトゥシャール・カプールの父)をつねる原版sab jaanu re tori batiyan「Jay Vijay」(1977)で踊っているのが彼女。

関連する記事

タグ: , , , , , , , , , ,