Nayak(2001)#173
Nayak(英雄) 01.11.11 ★★★★
ナーヤク
製作:A・M・ラトナム/原案・脚本・監督:シャンカル/台詞:アヌラーグ・カシャッププ/撮影:K・V・アナン/詞:アナン(=アーナンド)・バクシー/音楽:A・R・ラフマーン/アクション:カナール・カナン/振付:ラジュー・スンダラム、アーメド・カーン/美術:トーター・ターラーニー/編集:B・レーニン-V・T・ヴィジャヤン
出演:アニル・カプール、ラーニー・ムカルジー、アムリーシュ・プリー、パレーシュ・ラーワル、ジョニー・リーヴァル、ソォーラブ・シュクラー、シワジー・サタム、ニーナー・クルカルニー
特別出演:スシュミター・セーン
友情出演:プージャー・バトラー
ゲスト出演:ラザック・カーン
公開日:2001年9月7日(年間15位/日本未公開)
STORY
QTVのキャメラマン、シワジー(アニル)は、バルラージ・チョハーン州首相(アムリーシュ)の下町視察を取材中、少女マンジュリー(ラーニー)にひと目惚れしてしまう。シワジーは彼女にアタックする一方、バスの運転手が学生を突き飛ばした一件から大暴動に到った事件で負傷した学生を病院へ運んで視聴者の注目を浴び、TVレポーターに昇格。初仕事の生インタビュー番組で腐敗した州首相を窮地に追い込み、1日州首相をやることになったシワジーは本気で改革に着手して・・・!!
Revie-U *結末に触れています。
TVメディアを舞台にした作品と言うと、花形レポーター合戦が結果としてメディアを取り込んだ権力を暴くシャー・ルク・カーン&ジュヒー・チャーウラーの「Phir Bhi Dil Hai Hindustani(それでも心はインド人)」(2000)、メディアそのものが権力化するのを警告(?)していたアビシェーク・バッチャンの「Bas Itna Sa Khwab Hai(夢はほんのこれだけ)」(2001)や、カリシュマー・カプールの「Hum To Mohabbat Karega(恋しようよ)」(2000)などもあるが、本作ではレポーター転じて1日CM(チーフ・ミニスター)となって山積みの現状を打破しようとする!!
「Mr.India」Mr.インディア(1987)ことアニル・カプール扮する主人公シワジー・ラーオは、ちょっと捻ってTVキャメラマンとして登場する。彼はミドルクラス出身で、父親は風刺漫画家(カートゥーンはアルン・イナムダールによるもので、シワジーがバルラージをインタビューで追い込むシーンなどにもインサートされる)。母親(ニーナー・クルカルニー)も健在で、いたって仲がいい。ごく普通のインド青年である。
製作のA・M・ラトナムは、元々コリウッド(タミル映画)をベースにするプロデューサー。ソーナーリー・ベンドレー主演でいち早くインターネット・ラヴロマンスを描いた「Dil Hi Dil Mein(心は心に)」DHDM(2000)などヒンディー映画にも手を広げている。
監督はアイシュワリヤー・ラーイの「ジーンズ 世界は2人のために」Jeans(1998)を手掛けたシャンカルで、本作は彼のタミル語ヒット作「Mudhalvan」のリメイクとなる。
ボリウッド・レビューでは、コリウッド映画人に手厳しく、タミル・ベースで撮影されヒンディーに吹き替えられたような作品はいつもけなされていて「DHDM」もさほど評価されなかった。しかし、インターネットというヴァーチャルなテーマを取り上げながらローワー・クラスの生活を直視した「DHDM」は、臭い物には蓋をするのが主流であるボリウッド作品に比べて新鮮な一面もあった。
本作でも、TVが庶民の現実と隔絶したヴァーチャルな世界として描かれる一方で、電気・水道・医療もままならない下町やスラムの現状が映し出される(そう言えば「ジーンズ」も後半はローワー・クラスのエピソードであった)。このへんの嗅覚は、元来政治色が強いタミル映画界の影響だろうか?
さて、1日CMとなったシワジーは、視察現場へタイプライターを持ち込み、その場で書類を作成。悪徳医師、警官、役人、商人たちを次々と処分してゆく。もちろん、メディアを引き連れての行革であると同時に、直接、市民の声に対応する姿勢は現実性は薄いものの、どこかの国の都・県知事にも真似して欲しいくらいの勢いである。その上、キャンパスで女子学生相手に狼藉を働き、暴動でも撹乱を起こしていたゴロツキどもを鉄拳で叩きのめしてしまうのだ!
こうして改革を進めたシワジーは、1日CMの交替直前にバルラージさえ処分する。当然、彼の怒りを買って、シワジーは帰宅中に暴漢どもに襲われる。殴り倒されたところをガソリンを浴びせられた彼は炎から必死で逃げ、燃え上がったシャツやズボンを脱ぎ捨てながら汚濁ともヘドロともおぼつかない泥の中へ飛び込む。なおも追手は鉄棒で泥を突いて探し続け、彼の息の根を止めようと躍起になる。
ここで、全身泥に染まったシワジーは反撃へ転じ、暴漢どもを米「マトリックス」の立ち回り&フローモーションでバッタバッタと倒してゆく!!
ザ・リアル・ヒーローと謳いながら、その実、スーパー・ヒーローの登場である。
闘いを終えたシワジーは、倒した暴漢からズボンだけ拝借し、全身泥まみれのまま下町の商店へ立ち寄る。ソーダを買い求めて泥を洗い流そうとすると、彼に氣付いた人々が水ならぬミルクで泥を洗い流そうとする。
彼の通勤の足がオートリキシャーであることにも示されている通り、シワジーは庶民の代表であり、願望である。彼が低いところへ流れ込んだヘドロのような泥にまみれてスーパー・ヒーロー化するのは、社会の底辺に住む人々のパワーと一体化したためと言ってもよい。そして、聖なるミルクで清められるのは宗教的な意味合いを持ち、家に帰り着くまでにシワジーは路地を埋め尽くす人々から祝福を受け、まさに生き神様に等しい。
これまで主人公の名前をシワジー*と劇中のヒンディー発音に添って記してきたが、その名は破壊神と同時に強力な恩寵神であるシヴァに由来し、行革のヒーローに相応しい名前であることに留意しておきたい。
しかし、そのシワジーもTV局が暴徒に襲撃されたり、バルラージ寄りの役人から実家を半分打ち壊されるに及び、一度は屈してしまう。その彼を、悪徳CMバルラージの下で窮屈な思いをしていた良心ある補佐役のパレーシュ・ラーワルが導き手となって、人々の願望をつぶさに示す。しまいには地面を擦り歩く不具の少年が彼に懇願し、シワジーは再びCMとして改革を続行する決意を固める。それは、村娘マンジュリーとの別れにも重なるのだが・・・。
これだけ見てゆくと、政治色の強い「メッセージ」性の高い作品に思えてくるが、そのように見てしまうとシワジーの行う斬新な改革は第2幕止まりで、ロマンスとアクションが中心となる第3幕が物足らなくなってくる。
思うに、マニ・ラトナムならいざ知らず、おそらくフィルムメーカーの狙いは政治的なメッセージにあるのではなく、改革など不可能に近い現実の中で押し潰されそうになりながらも懸命に生活している観客を映画によって抱える願望と一体化させることにあるのではないか。
だからこそ、Mr.Indiaことアニル・カプールがたった1日で行革を遂行し、泥をかぶってスーパー・ヒーローとなり、ラストで暗殺者に仕立てたバルラージがセキュリティの銃弾を受けまくり、数メートルも飛んで絶命するのだ。政治的な状況などを掻き集めて社会告発めいていながら、その実、カタルシスのための一要素に過ぎないのだろう。
メッセージ性の高い作品が、観客の心を存分に奮わせる娯楽映画より必ずしも価値が高い訳ではない。その意味において、娯楽映画の立ち位置に留まる「Nayak」は、十分に役割を果たしていると言える。
ただ、現代日本人の目からすると、本物の肉体的障害者がフィクションの画面に登場し社会正義を訴えるのは、ある種、掟破りに映ることだろう。それは日本人がアジアのまなざしを失い、西洋社会的ヒューマニズムだと思い込んでるフィルターを通して物を見る癖がついてしまっているせいかもしれない。リアルという表現を用いるインド人の捉える現実感については「Vaastav(現実)」(1999)のレビューでも触れたが、現実と非現実の認識の違いについては今後も考察してゆきたい。
ヒロイン、マンジュリーに扮するラーニー・ムカルジーは「Bichhoo(サソリ)」(2000)と同じく10代の少女役を愛らしい演じている。
バルラージ役のアムリーシュ・プリーは、久々の壮絶死ぶりを見せる敵役。冒頭の下町視察で熱狂的な支持者の握手責めにより手を引っ掛かれた腹いせに、立ち去り際、その男の腕をへし折ってしまうなどキャラクターの持つ非道さも巧く描かれている。
バルラージ腹心のソォーラブ・シュクラーもなかなかチャーミー。また、主人公を導くパレーシュ・ラーワルの熱演も素晴らしい。
ミュージック・クリップの撮影シーンにスシュミター・セーンが特別出演、TVレポーター兼AD役に「Dil Ne Phir Yaad Kiya..(心がまた思い出す)」(2001)のプージャー・バトラーが友情出演、また冒頭のみ、ジョニー・リーヴァルと絡むラザック・カーンがなんとゲスト扱いで登場! ジョニーはシワジーのアシスタント役で、今回のギャグ・ポイントは脇腹を突っつかれるとどなり出していろいろな失敗をするというもの。
音楽は「DHDM」に続きA・R・ラフマーンへ発注され、よりポップなサウンドが全編を彩る。
Avidかどうかは不明だがノンリニア・デジタル編集が為されているらしく、スシューをフィーチャルしたミュージカル・ナンバル「shakalaka baby」など、かなりMTVちっく。アニルとラーニーが戯れる「tu achcha lagta hai」は、素焼きの壺が積まれた巨大迷路に壺、向日葵、南瓜、案山子など3DCGをアナログ化したよう被り物バックグラウンド・ダンサーが大挙として現れ、ヴァーチャルな印象を受ける。
雄大な風景の中で撮影されたミュージカル・ナンバル「chalo chalen mitwa」は、夕暮れの中、ライティングされた木枯らしをハイスピードで撮影、時間軸を変化させた編集などため息が出るほど美しい。
K・V・アナンの撮影は見事と言う他なく、マンジュリのー住むプルガオ村の田園風景は絵画のようでさえあり、大量のバスと車が埋め尽くす大通りでの暴動シーンなどの大規模な撮影も遜色がない。しかし、基本がマサーラー・テイストのため、「ボンベイ」Bombay(1995)のような迫真に満ちた印象は薄れている。
カナール・カナンのアクションも目を見張る。1日CMになったシワジーが空港裏のスラム街にあるゴロツキのアジトへ乗り込んでの乱闘シーンでは、離着陸するジャンボ・ジェットを映り込ませ、リリカルな王家衛作品とはまた違った映像効果をあげている。
さらに町中を走るロンドンバスの屋根から屋根を跳び回ってのファイト・シーンは、旧「ルパン三世・第5話:十五代五エ門登場」(S46.11.21放映)を彷彿とさせる出来。
ボリウッドのお家芸となったキャノン・バースティング・テクニックも存分に炸裂する(ハリウッドで言うキャノン・パイロ・テクニックとは微妙に異なる)。第3幕での、のどかな水田地帯をテロリストが襲撃する爆発シーンでは、牛車はおろか藁小屋まで地上高く吹っ飛び、まさに圧巻!
また、全身泥に染まったアニルがスーパーヒーローと化す中盤のアクションでは、「マトリックス」で話題となったフローモーションが見られる。ただし、ここは正式なブレッドタイム撮影でなく、2つのキャメラで捉えた映像を3Dデータ化した疑似フローモーションで処理されている。
興行的には、第1週がムンバイーで76%。まずまずの出足で、さほど息の長くないセミヒット程度というところか。
*追記 2006,02,14
シワジーの名は、マラーター王国を興した英雄シヴァジーに由来。「Vaastav(現実)」(1999)に出演している俳優シワジー・サタムの名もシヴァジーにあやかって命名されたのであろう。
*追記 2011,01,18
オープニング・タイトルバックはかなりワルノリで、この時期、アミターブ・バッチャンがホストを務め、国民的現象となり、「スラムドッグ$ミリオネア」の原作「ぼくと1ルピーの神様」(ヴィカース・スワループ著/原題「Q&A」)のインスパイア元となったクイズ番組「KBC」のパロディ「Kaun Banega Barepati(誰がなるのかダサ富豪)」も(ホストが小人!)。
スラムでの撮影はヒンディー語のメジャー作品としては、ちょっとした驚き。90年台終盤からゼロ年代初頭のボリウッドでは主人公が富豪、住まいが豪邸で当たり前という時代であった。
>ごく風通のインド青年である。
というのはインドでの話。
家に戻ったヴィジャイは、母親から「いくつになっても息子は息子」と言われ、母の膝で寝そべるなど、日本の基準では過度のマザコンに映る。
台詞を担当しているのは、なんと「Dev.D」(2009)の監督アヌラーグ・カシャップ。ニュー・ストリームとして先鋭的な作品作りに腐心する一方、経済面ではしっかり娯楽作品の王道を手がけるフットワークの軽さがさすが。
>ミュージック・クリップの撮影シーンに
スシュミターが踊る「shaka laka baby」は、タミル版「Mudhalvan」からの継続ナンバル。