Shree 420(1955)#156
「Shree 420(詐欺師)」2011.01.01 ★★★★
シュリー・チャール・ソー・ビース
製作・監督:ラージ・カプール/原案・脚本・台詞:K・A・アッバース/脚本:V・P・サティー/撮影:ラドゥー・カルマカル/作詞:シャイレンドラ、ハスラート・ジャイプーリー/音楽監督:シャンカル-ジャイキシャン/振付:サティヤナラヤン/美術:M・R・アチャレーカル/編集:G・G・マイェーカル
出演:ラージ・カプール、ナルギス、ナディラー、ネモ、ラリター・パーワル、M・クマール
助演:ハリ・シヴダサーニー、ナーナー・パルシカル、ブドゥー・アドヴァニー、ペーシー・パテール、ラーメーシュ・スィナー、ラーシド・カーン、シーラー・ヴァーズ、S・P・ベリー、カターナー、サティヤナラヤン、シャイレンドラ、ラージョー、マンサラム、イフティカール、ウマー・デヴィー、アンワリー、インディラー、ミラジュカル、バグワンダース、故ビシャームベル
公開日:1955年9月6日(日本未公開)
Filmfare Awards:撮影賞、編集賞
STORY
ラージュー(ラージ・カプール)は、村の正直コンテスト優勝者。成功を夢見て大都会ボンベイへやって来る。下町で子供達に教鞭を執るヴィッディヤー(ナルギス)と出会い、恋に落ちる。しかし、社交界の踊り子マーヤー(ナディラー)の画策でイカサマ・ギャンブラーとして取り入れられ……。
Revie-U
シャー・ルク・カーン主演「ラジュー出世する」Raju Ban Gaya Gentleman(1992)の原版であり、インド人の心に根付く名作。
主人公が履く靴が日本製であることから、インド・エリート・ビジネスマンがバブル末期の日本滞在を綴った「喪失の国、日本」(M・K・シャルマ著/山田 和訳/文藝春秋刊)の冒頭でも著者が日本に赴く心境を本作に重ねて記している。
製作・監督・主演は、インド映画界を代表する名監督にして名優のラージ・カプール。カリーナー・カプールとランビール・カプールの祖父にあたり、ヒンディー映画界において「カプール家」を名門に導いた才人である。
(開幕早々、神々へ祈りを捧げているのがラージの父である稀代の演劇人プリトヴィーラージ・カプール)
さて、そのオープニング。敬愛するチャップリン・スタイルのラージ(=ラージュー)がボンベイまで420kmの地点から歌い歩くのが今も愛されるメモラブル・ソング「mera juta hai japani(おいらの靴は日本製)」(ムケーシュ)。
「おいらの靴は日本製/ズボンは英国製/頭の赤帽はロシア製/それでも心はインド製」と続く歌詞がどれほど愛されているかと言うと、シャー・ルクが初製作に乗り出した「Phir Bhi Dil Hai Hindustani(それでも心はインド人)」(2000)のタイトルや、「Rab Ne Bana Di Jodi(神は夫婦を創り賜う)」(2008)のフィルミー敬愛ナンバル「phir milenge chalte chalte」のしょっぱなが本作へのリスペクトで、曲のイントロも「mera jute~」からの引用となっている。
「日本製」の意味は現代とイメージが異なり、まだ世界的に「安かろう悪かろう」の時代(実際、ラージの靴は穴が大きく空いている)。ソニーの前身、東京通信工業がトランジスタラジオを製造し米国へ輸出し始めたのが本作公開の1955年。社名をソニーに変更し、東証に上場するのが1958年のこと。
監督・主演のラージ・カプールは、マルクス主義に傾倒していたと言われるが、頭に被るロシア製の帽子が「赤」となっているのが興味深い。
ボンベイにたどり着いたラージューがバナナの皮を通りに投げ捨てると、それにすべって転ぶのがヒロインとなるヴィッディヤー。道行く人から笑われるも、バナナの皮を投げ捨て別の人が転ぶのを見て笑う。都会で生き抜くには嘘をついて人を騙さなければダメだと乞食から教わったラージューもそれにすべって転ぶ。
なるほど都会は騙し騙されという訳だ。
もっとも、ボンベイはそれほど悪い街ではない。
ケールワーリー(バナナ売り)のおばさんは、ラージが正直な人間であると見るや文無しの彼に「自分の息子と思うから」とタダでバナナを差し出し、ラージも「あなたはケールワーリーじゃないディルワーリー(心ある人)だ」と返す。しっかり人情が生きている、それがボンベイ。
先のヴィディヤーは質屋を訪れ、イヤリングを流してさらにチューリー(腕輪)を入れようとするが、旧知の店主が質草なしで貸すと言い出す。彼女と父親が下町で私塾を開き、奮闘しているのを知っているからだ。
「いいかい、そのうちいいことがあるよ。素敵な王子がきっと現れるから」と言い、そこへ文無しのラージューが店の中にやって来る。不運を嘆くヒロインにヒーローの到来を言い聞かせるのは「DDLJ」(1995)でも継承されている。
さて、ラージューが質入れするのが、なんと「正直」。正確には、孤児院主催の正直者コンテストでの優勝メダル。これで40ルピー借り受ける(利息は10ルピー)。
しかし、都会はそう甘くない。道端のインチキ賭博に騙され、20ルピー賭けてる間に残りの20ルピーもスリに遭い、再び文無しとなる。
インド政府と契約し日本人教師として1958年から3年半インドに滞在した石田保昭著「インドで暮らす」(岩波新書)によると当時、1ルピーは日本円で75円。給料は275ルピー(20,625円)。当時の大卒者初任給が13,500円ほどだから多少条件はよい。ちなみに当時、銭湯15円、牛乳15円、そば25円、コーヒー30円、チキンラーメン35円、カレー80円、映画100円。
2010年の大卒者初任給は19,7400円だから、日本国内の物価変動は約15倍というところか。
本作では道端のチャイ1杯1アンナ(1ルピーの16分の1で4円60銭)、バナナ2本3アンナ(14円)、クリーニング店の初給が45ルピー(3,375円)となっている。「インドで暮らす」に出て来る小間使いは月給70ルピーだから、初給としてはこのようなものだろう。
一方で、悪徳政治家が屋敷前の路上生活者から1泊3ルピー(225円)も搾取しており、無職の彼らでも寝泊まりするだけで月に90ルピー(2,250円)かかることになる。現在の物価で33,750円だから、日本のドヤ暮らしと大して変わらない。
砂浜のボート下で一夜を明かしたラージは、再びヴィッディヤーと出会う。例のよって犬猿の仲だが、岩場の上で伸びをしては海に落ちたラージを入水自殺と勘違いし、ヴィッディヤーが助けに飛び込む。
この「濡れ場」も「ラジュー〜」で下町に着いたラージュー(シャー・ルク)が早々にヒロインのレーヌー(ジュヒー・チャーウラー)からバケツの水を浴びせられるスケッチに受け継がれている(シャー・ルクが口から水を噴き出すのもしっかり対応)。
ヒロイン、ヴィッディヤーを演ずるのは、「Andaz(流儀)」(1949)、「Barsaat(雨季)」(1949)、「Awara」放浪者(1951)などラージ・カプールの相手役として名高いナルギス。信じられないかもしれないが、あのサンジャイ・ダットの母である(面長で、しっかりとした骨格が頷ける)。
舞踊は得意ではないが、50年代を代表する女優で、サンジャイの父となるスニール・ダット(「Munna Bhai MBBS」)との共演作「Mother India」(1957)が代表作。
子供たちに絵描き歌でデーヴァナーガリーを教える様は、プレイバックするラター・マンゲーシュカルの可憐な歌声も手伝って実に愛らしい。
「ラジュー〜」でもはじめレーヌーが思い違いしていたように、本作のラージは文無しの浮浪者に見えて、実はB.A.(Bachelor of Arts:文学修士)。
なぜそんな学歴がありながら、と問われたラージが黒板に描くのが、泣き笑いに分かれたピエロの仮面。
「ラジュー〜」での継承点は、文無しラージが高層住宅を背景に辻説法する「ヒンドゥーがナマスカール、ムサルマーン(イスラーム教徒)がサラーム、クリスチャンがグッド・モルニング、サルダール・ジー(スィク教徒)がサッスリアカール」という台詞やラージがダフリー(大タンバリン)片手に歌うのも、「ラジュー~」のジャイ(ナーナー・パーテーカル)に受け継がれている。
そんなラージの人生に転機が訪れる。
ランドリー(=クリーニング)店に就職し、ホテルのスイートルームにクリーニングを届けたラージは、依頼主が姿を見せるまで、置いてあったトランプでひと遊びする。そのカード捌きを目にしたマダム・マーヤーがさっそくラージにタキシードを着せ、社交パーティーに連れ出すのだ。
演ずるは「Julie」(1975)の母親役ナディラー。ワルツ・ナンバル「mudh mudh ke na dekh(振り返るのはナシ)」(アーシャー・ボースレー×マンナ・デイ)で見せる優美さと対極の凄みでラージをコントロールする。
それを受けるラージ・カプールの芝居も見事だ。
道化顔からタキシードを着るや、手のひらひとつで表情を冷徹に変えるところはさすが(もちろん「大魔神」のような合成ではない)。
ラージ・カプールというと、チャップリン・スタイルが思い出されるが、「Awara」ではやくざな青年をクールに演じただけあって、ダンディな出で立ちも様になり、「ピープリーナガルのラージ・クマール(王子)」との偽りも通る。カード・ゲームに興じながら、時折垣間見せる暗い表情が実に恐ろしい。
こうしてラージは一夜にして19,800ルピー(1,485,000円)稼ぐ。月100ルピー稼ぐ庶民の暮らしで優に15年分を超す金額だ。
しかし、マーヤーが彼に与えたのは、10ルピーのバクシーシ(施し)のみ。ギャンブルの元手もタキシードも彼女が用意したものであり、貧者はどんな才能があろうと搾取されて追い出されるのがオチということか。
いや、追い出されるだけならまだマシであろう。
「正直」という魂を売ったラージの元に現れるのは、さらにあくどい人物セートだ。彼こそ路上生活者から1泊3ルピーを巻き上げて超豪邸に暮らす悪徳政治家で、ラージに「ティベット・ゴールド社」と「ラージ・ラージ・ラージ社」を設立させ、詐欺の片棒を稼がせる。
実はボンベイでへ向かうラージがヒッチハイクの芝居から路上に倒れて止めたクルマがセートの物で、すぐに追い出される。そのナンバーが840と420の倍を行くワルなのであった。
魂を売ろうとしているのは、ヴィッディヤーも同じであった。私塾も閉鎖せざるをえなくなり生活も困窮、遂に学問(=ヴィッディヤー)の魂である辞典を質入れする他ないほどに落ちぶれ、まっとうに生きることの苦難が示される。
ラージの想い出に浸るヴィッディヤーは、ふと道端のチャイワーラーに寄るがもはやチャイ代の2アンナも持ち合わせがない。そこへアメ車に乗ったラージが通りかかる。初めて愛を語り合った時との隔たりを示す伏線がこのチャイワーラーとなっていて、「ラジュー〜」ではカー・セールスマンがこれに当たる。「成功したら必ず君からクルマを買う」と宣言したラージューが再び訪れた時、そばにいるのはレーヌーでなく社長令嬢のサプナーで、成功と共に愛(真の幸福)を失ったことが示されていた。
ラージは後悔するも遅く、マーヤーが彼の名前で路上生活者を狙った住宅詐欺「ジャンター・ガル(人民住宅)」(100ルピーで住居提供)を仕組んだ後であった。
「ラジュー〜」で主人公の幸福を歪めるセカンド・ヒロインは「サプナー(夢)」と名付けられていたが、本作では「マーヤー(幻影)」とより手厳しい。
本作のタイトルにある「420(チャール・ソー・ビース)」は、詐欺罪に当たるインド刑法からのスラング。
本作のクライマックスで、ラージは腹黒い連中を単なる「420(詐欺師)」でなく「Shee 420」と呼ぶ。「シュリー」は神々の名にちなみ「聖なる」という意味で男名につける尊称だが、現代的には「Mr,」の代わりに使われる。「富・財産・名声・栄光」なども示すため、他人を騙して自分本位に振る舞う生き方を尊ぶ風潮への風刺であろう。
同時に「偽者」「紛い物」も意味し、カマル・ハッサンが「ミセス・ダウト」を焼き直した「Chachi 420(偽おばさん)」(1997)やアクシャイ・クマール主演「Khiladi 420(偽闘士)」(2000)などの作品が作られている。
ラストで悪徳政治家たちがリンチを受けることなく逮捕され、ラージもまた警官に連れられてゆく。すべては司法が裁く、というのは、近代国家として立ち上がって間もないインドのプロパガンダ的側面も担ったヒンディー映画の「伝統」でもある。
そして、ひとり去ってゆくラージをヴィッディヤーが連れ戻して彼に見せるエンディングは、ラージがクライマックスで唱えた人々が団結して自分たちの住宅を作る「人民住宅」の姿であり、輝けるインドの未来を託していた。
ネルーの社会主義路線からインドは旧ソ連と近しく、本作も共産圏で公開され、ラージ・カプールは人氣を博した。このため、今もロシアや旧共産圏諸国でボリウッドが流通している。
ラージ・カプールの製作スタイルは、大がかりな街頭のパノラマ・セットや豪邸セットなどスケールあふれ、演技面、キャメラワーク、展開とすべてにおいて現代の映画と遜色なく、引き込まされる。「インドの天才監督」と呼ぶべきは、まさしく彼のことであろう。
さて、本作でも「成功」した主人公がヒロインにドレスをプレゼントしている。
しかし、「Maine Pyar Kiya(私や愛を知った)」(1989)や「ラジュー~」のような露出的な意味合いはなく、ラージはラクシュミー寺院と称してディワリで賑わう社交パーティーに連れてゆき、「ここがラクシュミー(富をもたらす)寺院だ」と言ってのける。
ラクシュミーは富と幸運の女神でもあるが、人はこれを逃し不幸をももたらすため、別名、氣まぐれの女神チャンチャラーとも呼ばれる。
また、ボリウッド敬愛ネタを幾つか解説。
「Rab Ne Bana Di Jodi」のフィルミー・ナンバル「phir milenge chalte chalte」で本作のナルギスに対応したカジョールが黒と白のサリー姿であるのは、モノクロ映画へのリスペクトと、ヴィッディヤーがバナナで尻餅をつく時の衣装に合わせてのこと。
傘が出て来るのは、本作でラージとヴィッディヤーが結婚を意識するや雨(天からの祝福)が降って来るから。ひとりが入ればひとりが濡れるため身を寄せ合う「相合い傘」とはよく言ったものだが、これも「男と女が愛し合い、結婚して子供が生まれ、学校にやるにしても45ルピーの稼ぎではどうすればいい?」「ふたりで働けばいいわ」の台詞がここで生きてくる。
ちなみにこのナンバル中、雨ガッパを着て手をつないで歩く3人の子供はラージの息子で、長男ランディール(「Housefull」)、次男リシ(ランビールの父。「Karobaar」)、三男ラジーヴとのこと。
マーヤーに魅せられ人が変わってしまったラージが立ち去る際、じっと立ち尽くすヴィッディヤーからアートマ(魂)の如く幻影のヴィッディヤーが抜け出しては追いすがろうとする幻想的な演出は、アジャイ・デーヴガンの父ヴィール・デーヴガンが監督した「Hindustani Ki Kasam(インドの誓い)」(1999)で敬愛引用している。
オープニング・ソング「mera juta hai japani」をプレイバックしているムケーシュの孫が、「Johnny Gaddaar(裏切りジョニー)」(2007)でデビューしたニール・ニティン・ムケーシュ。白人的なモデル顔でさほど冴えないが、ジョン・エイブラハム×カトリーナー・ケイフ共演のテロ映画「New York」(2009)やディピカー・パドゥコーン共演のボクシング映画「Lafangey Parindey(無頼の鳥)」(2010)など、ヤシュ・ラージ・フィルムズ出演が続いている。
アビシェーク・バッチャン主演「Bas Itna Sa Khwab Hai…(夢はほんのこれだけ…)」(2001)の下敷きとなった他、シャーヒド・カプール N ヴィッディヤー・バーラン主演「Kismat Konnection(運命のコネクション)」(2008)も「ラジュー出世する」を下敷きにしているため、本作の孫と言えるだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
facebookのナマステ・ボリウッド・ページもよろしく!
www.facebook.com/namastebollywoodjapan
ムック・シリーズ好評発売中!