Dil Chahta Hai(2001)#145
「Dil Chahta Hai(心が望んでる)」01.09.15 ★★★★
ディル・チャーハター・ヘェ
製作・作詞:ジャーヴェード・アクタル/製作:チャンダン・シドワーニ/原案・脚本・台詞・監督:ファルハーン・アクタル/撮影:ラヴィ・K・チャンドラン/音楽・背景音楽:シャンカル-エヘサーン-ローイ/振付:ファラー・カーン/編集:A・スリカル・プラサード
出演:アーミル・カーン、サイーフ・アリー・カーン、アクシャヱ・カンナー、プリティー・ズィンター、ソーナーリー・クルカルニー、ディンプル・カパーディヤー、スハーシニ・ムーレイ、アーユブ・カーン、ラジャト・カプール
公開日:2001年8月10日(年間トップ5ヒット!/日本未公開)
47th Filmfare Awards:助演男優賞(アクシャヱ・カンナー)、最優秀道化賞(サイーフ・アリー・カーン)、振付賞、R・D・バルマン賞、編集賞、批評家選’脚本賞/作品賞
National Film Awards:男性プレイバックシンガー賞( jaane kyon〜ウディット・ナラヤン)
8th Screen Awards:最優秀道化賞(サイーフ・アリー・カーン)、台詞賞、背景音楽賞、作詞賞、男性プレイバックシンガー賞(tanhayee〜ソーヌー・ニガム)、振付賞、特殊効果賞、スクリーン特別賞(アクシャヱ・カンナー&ファルハーン・アクタル)
STORY
学生時代からの親友同士、氣まぐれ屋のアーカーシュ(アーミル)、ナンパなサミール(サイーフ)、絵描きのシド(アクシャヱ)は、ムンバイーの気ままな生活を楽しんでいた。ある日、シドは引っ越しの荷物を部屋に運べずにいる熟女のデザイナー、ターラー(ディンプル)と出会う。次第に彼はターラーに惹かれるが、彼女は親権を奪われ家を追い出されたアルコール依存症。そのことでアーカーシュの毒舌が災いし、彼らの友情は喧嘩別れとなる。サミールは親から持ち込まれた縁談でプージャー(ソーナーリー・クルカルニー)と見合いをするが、今どきの彼女は当然彼氏を持っていた。アーカーシュは父の依頼でシドニー支社を任され、ディスコで出会ったシャリーニー(プリティー)と再会。フィアンセのローヒト(アーユブ)がいるものの、ふたりの氣持ちは接近してゆく。だが、愛の不信心者アーカーシュは自分の心を押しつぶしてしまう。初めて愛することの痛みを知ったアーカーシュは、シドにコンタクトを取ろうとするが叶わず・・・。
Revie-U
「ラガーン」Lagaan(2001)でメガヒットを飛ばしていたアーミル・カーンに、「Love Ke Liye Kuch Bbhi Karega(愛のために何もかも)」(2001)のサイーフ・アリー・カーン、プラスほとんど忘れられていた「Taal(リズム)」(1999)のアクシャヱ・カンナーら30代(?)の友情物語。
これまでもラーム・ゴーパル・ヴァルマーなど非マサーラー的な本格志向の作品が作られ、それらをニューウェーヴと呼んできたが、本作に到ってはストーリー、ライティング、編集、シンクロ(同時録音)撮影、音楽といい完全な「洋画」テイスト。シャンカル-エヘサーン-ローイに発注された音楽もクラブ・ミュージック風で、インド系の監督が海外で作ったNRIの話、と言ってもまったく通用するほどのクオリティである。
キャスティングもマサーラーっぽい脇役俳優は一切なし。インド的なのは、主人公たちが親と同居していること、アーカーシュがオーストラリアへ行く飛行機でシャリーニーと「偶然」隣り合わせになること、クライマックスが結婚式ということぐらい。
3人の主人公が選ぶ恋の相手やアプローチも、今までのいわゆる「インド映画」とは異なっている。それぞれ問題を抱えており、特に「驚き」なのは、シドが惚れる相手がかなりの年上で、しかもアルコール依存症のために親権を剥奪され家を追い出されたバツイチのキャリアという設定。
実際、ターラーを演じるディンプル・カパーディヤーは、トゥインクル・カンナーの母親! このような「熟女」が「ひとりの女」として描かれ、ひと世代年下の若い男と恋をしてしまうなど、これまでのインド映画にはまず見られなかった(演じる方も勇氣がいるだろう。しかもディンプルは娘の結婚問題の最中に出演!!)。もちろん、40代ながらディンプルはソフィスティケートされた美人として登場。オバサン臭さは微塵もなく、洋画なら「現役」のキャラクターだ。
しかしながら、経済改革でライフ・スタイルも変化し、ディスコもあちこちに出来て、若者は西欧とほとんど変わらない暮らしぶりをしている昨今のインドにあっても、それらを享受できるのはまだまだ都市部と上位からミドルクラスまでの何割かに限られ、世間全般ではターラーのような女性は白い目を向けられる存在だろう。劇中でもアーカーシュがそのことで毒舌を吐き、シドが怒って彼らの友情は埋めがたい溝で引き裂かれる。
アクシャヱは往年のスター、ヴィノード・カンナーの息子で、アイシュワリヤー・ラーイと2作続けて主演。一時はボリウッドのトップ・スターを約束されたかに見えたが、髪が薄くなったのが原因(?)ですっかり影が薄くなっていた(公表されてるバイオデータが正しければ、まだ26!)。
しかし、今回は短く刈り込んだ妙なヘアスタイルで復活。シリアスな演技も難なくこなし、「Border」デザート・フォース(1997)で新人賞を受賞した実力を再認識させた。ダンス・シーンはかなりトレーニングを積んだようだが。
サイーフは、アーミルとアクシャヱのサポート役。ナンパ師という設定で、3人で出かけたゴアに1人居残って金髪美女の強盗にまんまと有り金全部を奪われてしまう。見合いの相手ソーナーリー・クルカルニーは、今回メイクもセンスなく、特に印象なしなのが残念だが、芝居のトーンを合わせられる実力があってのキャスティングだろう(ボリウッドの俳優は層が厚いだけに、総じて幅広い技量を持っている。クサイ芝居など微塵も見られない。映画のトーンを崩すキャラクターやキャストは排されているが、恐らくジョニー・リーヴァルやラザック・カーンにしても、映画のレベルに合わせての押さえた芝居は出来る力は持っているだろう)。
後半のウエイトは、やはりスター・ヴァリューからアーミルとプリティー・ズィンターに置かれる。
シドニーでのデートの帰り、地下鉄にシャリーーがひとり乗りそびれてしまう。人氣のないホームで彼女にホームレスが寄ってくる。アーカーシュが急いで電車を乗り換えて戻って来るが(時間的に端折っているものの)、ここで強盗に遭い大立ち回りになるといった荒唐無稽さはない。観客もすでに映画のトーンを知っているため、ホームレスの前に仁王立ちとなったアーミルがどう出るか、固唾を呑むわけだ。意外にも彼は、ホームレスをハグし(!)、相手の意表を突いて追い返してしまう。
デートで乗ったジェットコースターとこの地下鉄事件で、シャーリニーはアーカーシュに惹かれてゆく。彼女に誘われたオペラ観劇で、はじめはソプラノの歌声に合わせて首を絞められる悪ふざけをして隣のご婦人に顰蹙を買うものの、シャーリニーの説明を聞き入るうちにアーカーシュは彼女の氣持ちを理解し、また自分が彼女を愛していることを悟る。シャーリニーの恋愛エピソードは、ただ感情というだけでなく、互いの価値観の共有が愛(結婚)には重要である、という一歩進んだ描写が示される。
クライマックスはシャーリニーの結婚式にアーカーシュが乗り込んでゆき一騒動なのだが、血まみれの立ち回りなどにはならない。結局のところ、ふたりの愛が揺るぎないものであると知った彼女の両親がカンタンに許してしまうが、それまでの心の過程がしっかり描かれているので、すんなり受け止められるし、画面の設計も浮ついたものにはなっていない。
監督のファルハーン・アクタルは、 「Refugee(難民)」(2000)でFilmfare Awardsを受賞した作詞家ジャーヴェード・アクタルと、同じく「Kaho Na…Pyaar Hai」(言って…愛してるって)」(2000)、「Kya Kehna!(なんて言ったら!)」(2000)でFilmfare Awardsを受賞した脚本家ホーニー・イラーニーの息子。アクシェヱのデビュー作「Himalay Putra(ヒマラヤの息子)」(1997)で助監督を務め、その後、テレビ界に移り、これが監督デビュー作!
急患に付き添って救急車で病院へ向かったシドがサミールに電話するが、誰が危篤状態になったのか、プロローグでは判らない脚本の構成もさすが。エピローグはターラーの死があり哀調ながら、エンディングのピクニック・シーンで一応、ほっとさせられる。
しかし、脚本の草稿では主人公は10代の設定だったらしく、すでに30代半ばのアーミルがガキっぽいメイクで遊びまくるのは少々難があるが、プロデューサーを買って出た父親の世代やスタッフの末端、端役に至るまでコンセプトを理解させ、自分の意図するところを限りなく実現させてデビュー作を完成させたファラハーンはとにかく驚嘆に値する。
映画制作は複雑な工程を踏み、関わる多くの人間の思惑に左右される。フィルムメーカーにとって、作品の善し悪しを決めるのは半ば運不運と言っても過言ではない。新人監督が新しい感覚で描こうと思うのは容易だが、出資者が自局の女子アナをヒロインに強要したり、スタッフの力み過ぎからあざとく見えたり、監督のコンセプトをズタズタにしてしまう例は数多いのだ・・・。
さて、完全に「洋画」テイストのヒップな本作がインドの観客にどう受け止められるか? 大いに氣になるところだが、若年層の支持を受け、好調なスタートを切った。さすがに地方は落ちているが、ムンバイーは4週目も80%台をキープ。
もっともクオリティがあまりにも「洋画」過ぎて、少々物足らない氣気もする。もちろん、日本のマーケットについて語るのは無意味だろう。
余談だが、日本でのいわゆるインド映画ブームは一般的には完全に終わってしまった。2000年夏公開の「アシュラ」Anjaam(1994)は、浮いたキャンペーンにファンも引いて客入りゼロの上映回もあったというし、某情報誌特別編集のスター名鑑2001には、チェ・ミンシク、ソン・ガンホの名はあれど、ラジニーカーントはおろかシャー・ルク・カーンさえ載っておらず、高らかに「インドの日」を制定したはずの東京ファンタでも2001年度に上映作品なし。
興行的な要因が大きいとはいえ、ワールドワイドに公開されているボリウッドの優秀な作品を日本国内で観られないのはまことに残念である。
*追記 2010,12,23
>ファルハーン・アクタル
公開当初、「ボリウッドの新風」として評価の高かった本作。監督デビューを果たしたファルハーンに期待が集まったが、国防映画「Lakshya(標的)」(2004)、リメイクのスリラー「DON」Don(2006)と傾向が異なる3作を監督した後、「Rock On!!」(2008)でいきなり俳優デビュー! その後も俳優、タレント路線を走り、ファンからの要請で?ようやく「Don 2」(2011)で監督復帰。
また、本作で配役を担当した双子(!)の妹ゾーヤーも「Luck by Chance」チャンスをつかめ!(2009)で監督デビューを果たしている。
>日本でのいわゆるインド映画ブームは
ゼロ年代に劇場公開されたボリウッド作品は10本に満たず、ほぼ10年経っても状況が変わっていないことには驚くばかり。
加えて、女性観客離れにより2011年1月には恵比寿ガーデン・シネマが閉館するという。これは不況だから映画へまわす遊興費が減ったというのではなく、ミニシアター系を支えて来た女性観客層が10年経って年代が30〜40代にシフトし仕事や家庭環境が変化し氣軽に映画館に通えなくなったためだろう。問題はその下の世代がミニシアター系の観客として育たなかったことにあるように思う。
いずれにせよ、インド映画うんぬんという前に映画業界そのものが沈没しかねない状況にあるわけだ。