Peepli [Live](2010)#144
「Peepli [Live]」 ★★★★
ピープリー・ラーイブ
製作:アーミル・カーン、キラン・ラーオ/脚本・監督:アヌシャー・リズヴィ/共同監督:メヘムード・ファルーク/撮影:シャンケール・ラーマン/プロダクション・デザイン:スマン・ローイ・マハパトラー/背景音楽:マティアス・ドゥプレシー/衣装:マキシマー・バス/アクション:ジャーヴェード-ヱジャズ/編集:ヒマンティ・サルカル
出演:オームカル・ダース・マニクプーリー、ラグヴィール・ヤーダウ、シャリニー・ワトサ、ファルーク・ジャファル、ナスィールディン・シャー、シーターラーム・パンチャル、ナワーズッディン・シディーク、アーミル・バシール
公開日:2010年8月13日(日本未公開)
米アカデミー賞外国語映画賞インド代表
STORY
ムクヤ・プラデーシュ州の貧しい農民ナッター(オームカル)は、兄ブディア(ラグヴィール)と同居の冴えない男。道を歩けば牛糞に足を取られて尻餅を打つ人生。貧困を苦に自殺すると政府から見舞金が出ると知って、自殺を決意。たまたまそれを耳にした地元の印刷工兼新聞記者ラーケーシュ(ナワーズディン)が記事にまとめたことからTV局のレポーターどもがピープリー村へ生中継に殺到し・・・。
Revie-U*結末に触れています。
アメリカに渡って成功を収めたヒンドゥー聖者の説いた本に「先進国では何故これほど自殺が多いのか? インドは貧しくとも自殺する者はいない」とあるのを目にしたことがあるが、実際のインドは自殺大国でもある。「3 Idiots」3バカに乾杯!(2009)で見たように競争社会に躓いた若者は悲嘆から自殺し、若い娘は親にダウリー(持参金。法律上は禁止されている)の負担をかけまいと自殺し、農村では貧困から自殺が横行する。
本作は、予告自殺報道に群がる無神経なメディアや、貧困層を選挙の票田としか考えていないゴロツキ政治家どもが織りなす狂想曲と言える。
渦中のナッターは家の周辺に陣取ったメディアから24時間監視され、おちおち朝の「お勤め」も出来やしない。報道以前は邪険に扱っていた選挙屋どもが手のひらを返したように豪華プレゼントを持参し、騒ぎに便乗したパフォーマンスを繰り広げる。
テリウッド(インドTV界)の暴走ぶりは今に始まったことでなく、ちょうど10年前、シャー・ルク・カーン初製作・主演「Phir Bhi Dil Hai Hindustani(それでも心はインド人)」(2000)ではTV局同士の視聴率競争が揶揄され、アビシェーク・バッチャン主演「Bas Itna Sa Khwab Hai…(夢はほんのこれだけ…)」(2001)では棒のように痩せた農村の少年をTVスタジオに連れて来ては見せ物同然の似非ヒューマニズムを説く偽善者ぶりが描かれていた。
それがここに来て、エスカレート。実際、カラン・ジョハールがホストを務めるヤシュ・ラージTVの看板番組「Lift Kara De」ではボリウッド・スターの熱烈なファンにスタジオでの「共演」を競わせるバラエティ番組である一方、インド・バブル経済の恩恵から外れた病苦や貧困に喘ぐ「下流」の人々に毎回スポットを当て完全に「お涙頂戴の見せ物」とするコーナーが唐突にインサートされる構成だ。難病の夫を持つ薄幸な妻へ(彼らにしてみれば)天文学的な金額の小切手を手渡した氣のよいカジョールは涙していたものの、これだけの大金を公衆の面前で農村の貧者に手渡せば、かえって好奇の目を集め、強欲なタークルに命ともども強奪されるのがオチだろう。
そんなメーラー(祭り)と化した騒ぎの間中、黙々と地面を掘っている男がいる。老齢で、痩せぎすの男は、ある日、死んでいた。彼の存在に氣づいていたのは地元記者のラーケーシュだけで、他のメディアワーラーたちはまったく意に介さない。
やがて、ちょっとした騒ぎから納屋に火がつき、焼死体が発見される。これがナッターの死体とされ(身長も違うが、DNA検査など為されない)、彼は予告通り「自殺」したとされる。
祭りの後、メディアワーラーたちは機材を片付け、村から去ってゆく。
そっと逃げ延びたナッターは都会へ出て、建設現場で働いている。太古から大して変わらぬ暮らしをしている農村から都会へと向かう道筋の変化は、そのまま時代の進化を示し、<現代>の大都会へと至る。
建設現場で働く男達が、ツルハシ1本で地面を掘り続け誰にも顧みられずに死んで行った村の男に重ね合わされており、現代の都会生活が農村の過酷な状況の上に成り立っていると取れる(同時に都市は流入を受け入れている訳だが)。
さて、ボリウッド的にチェックしておきたいところは、ラーケーシュの「死」であろう(他でもなく彼が身代わりに選ばれたのは、政府にライセンスを握られている地方ジャーナリズムの死か)。
遺体が運ばれる場面で彼のブレスレットが映し出され、身代わりであることが示される。が、ラーケーシュがそのブレスレットをしている場面はさりげなく描かれているので、おそらく昨今の日本人観客では見過ごしてしまうだろう。
ところが、このブレスレット。太めのチェーンに楕円のターコイズをトップにアレンジした物、そう、サルマーン・カーンのトレード・マークとなっているチェーンだ(彼がしている本物は銀)。なにしろ「Main Aurr Mrs.Khanna(私とミセス・カンナー)」(2009)では彼の帰国を告げるショットがこのブレスレットで示されていたし、「Wanted」(2009)のDVDジャケット裏もこのブレスレットが大写しになっている。
という訳で、地面を掘っていた男の死に思いを馳せるラーケーシュがブレスレットをいじっている場面でインドの観客は「サルマーン・ブレスレットだ。俺も欲しいな」とこれに注目する仕掛け。
さらにボリウッド・小ネタでは、序盤にブディアとナッターが金の無心しに行った政治家のリング・トーン(着メロ)がアーミル製作で甥っ子イムラーン・カーンのデビュー作「Jaane Tu…Ya Jaane Na(知ってるの? 知らないの?)」(2008)のヒット・ナンバル「pappu can’t dance」。
また、村の床屋に貼ってあるポスターが「Devdas(デーヴダース)」(2002)のマードゥリー・ディクシトと、若い頃のミトゥン・チャクラワルティー。
主演は、これが映画デビューとなるオームカル・ダース・マニクプーリー。佐藤蛾次郎然とした風貌は、同じ小男俳優のラージパル・ヤーダウと見間違えそう。兄役ラグヴィール・ヤーダウ同様、地方演劇出身。先日亡くなったインド現代演劇の開拓者ハビーブ・タンビール率いるナヤー・テアタル(新劇場)に所属。その風貌からボリウッドでの続投は難しく?次回作は、インド東北部を市場とするチャッティースガリー(チャッティースガル州の公用語)映画に出演するとか。
このふたりが演ずる兄弟が畑で煙草を吸いながら「俺が死ぬ」と言い合い、「パッカー(キマリか)?」と問うのが可笑しくも哀しい。
作品の出来としては、例によってメディアの無責任な面ばかり強調されており、展開は読める。問題は、それがどのように味付けされているかだろう。日本を始めメディアは短絡的な視聴率競争の無間地獄が宿命となっているが、視聴者ニーズがそれを助長していることを忘れてはならない。
舞台となるムクヤ・プラデーシュ州は架空の州。マディヤ・プラデーシュ州であることは自明で、高度経済成長中のインドにあってウッタル・プラデーシュ州と共に立ち後れた地域とされ、入り組んだ政治王国の代表格でもある。
本年は「Raajneeti(政祭)」(2010)、「Dabangg(大胆不敵)」(2010)と大作の舞台として続く。
村の名前ピープリーは<ピープル>だけでなく、「ピープ・ショー(映画初期のフィルム覗き箱。転じて覗き見趣味)」を連想させる。
製作は、ボリウッドの変革者として期待を集めるアーミル・カーン。リアル・インドと見せかけて、寓話的に仕上げているのが効果的。
アーミルはじめフィルムメーカーたちの真摯な姿勢は伝わるものの、張藝謀(チャン・イーモウ)が「初恋のきた道」と同時期に「あの子を探して」を制作して「中国の貧しい農村で海外市場にアピールか?」と懸念されたのが重ならないわけではない。
アーミルは例年、年末ギリギリ公開で映画賞レースを勝ち抜く戦法をとっており、本作を夏に公開し主演作の話題作りに、という訳ではないだろうが、妻キラン・ラーオの初監督による主演作「Dhoobi Ghat(洗濯広場)」が9月のトロント国際映画祭に出品されながら公開が2011年1月にズレ込み若干計算が狂った模様。
*UTVから発売の正規盤DVDは、ヤシュ・ラージ・フィルムズ「Rab Ne Bana Di Jodi(神は夫婦を創り賜う)」(2008)と同じケース。それでいて高級感が感じられないのは、本作のテーマに合わせてか??
「PAL」表示ではあるが「なんちゃってPAL」のため、パイオニア製国内仕様のプレーヤー、中国製格安(オール・リージョン)プレーヤー、パソコンで難なく再生できる。