Vaastav(1999)#141
Vaastav(現実) 01.10.19 ★★★★
ワースタウ
製作:ディーパック/原案・脚本・監督:マヘーシュ・マンジュレーカル/撮影:ヴィジャイ・アローラー/音楽:ジャティン-ラリット/詞:サミール/背景音楽:サンディープ・チョウター/アクション:ラーム・シェッティー
出演:サンジャイ・ダット、ナムラター・シロードカル、モーニーシュ・ベーへル、エクター・ベーへル、リーマー・ラグー、シヴァジー・サータム、モーハン・ジョーシー、アーシーシュ・ヴィダヤールティー、パレーシュ・ラーワル、ヒマーニ・シヴプーリー、ディーパック・ティージョリー、ガネッシュ・ヤーダウ
特別出演:カシュミラー・シャー
Filmfare Awards:主演男優賞(サンジャイ・ダット)
Screen Awards:主演男優賞(サンジャイ・ダット)
STORY
ローワー・ミドル・クラスが集まった下町のチャウル(集合住宅)に住むラグー(サンジャイ)は父親(シヴァジー)に頼んで、屋台のダーバーを始める。しかし、暴力組織パンダヤー・ファミリーのゴロツキとトラブり、彼らを殺してしまう。警察の追手から逃れたラグーたちは、パンダヤー・ファミリーと対立する地元のボス、ヴィタール・カンヤー(アーシーシュ)とスルマーン(パレーシュ)を通じた示談の席でパンダヤーの兄貴分を射殺。一氣に闇の世界へ転落してゆく。そんな彼を手駒に選んだのが、汚職大臣カダム(モーハン)だった。ラグーは娼婦ソニア(ナムラター)と所帯を持つが、次第にコカインと暴力に歯止めが効かなくなって・・・。
Revie-U *結末に触れています。
サンジャイ・ダットが、登場シーンでいきなり父親から耳をつね上げられる。これは、第1幕が少年時代の設定だからである。「カランとアルジュン」Karan Arjun(1995)のシャー・ルク・カーン&サルマーン・カーン然り。しかし、40歳のサンジューが年齢不詳のティーンエージャーを演じても、ストーリーに没頭してしまうとそれが氣にならない。むしろ、少年時代の彼を見るようで、その芝居に感心してしまう。
このサンジューの少年という設定を違和感持たせないようにするためか、モーニーシュ・ベーへル扮する兄ヴィジャイが同じ集合住宅に住むプージャー(エクター・ベーへル)と恋仲になっている。兄は女の子が氣になる年頃だが、弟のラグーはまだ悪ガキの世代なのである(この結婚は当初、プージャーの父親がカーストの違いから反対する)。
父親は、シヴァジー・サータム。本作の亜流「Baaghi(反逆者)」(2000)では、サンジューと対立する隣家の父親を演じている。母親は、お馴染みのリーマー・ラグー(今回はRimaとクレディットされている)。
悪戯ばかりしては叱られている少年ラグーが、真面目に商売するから、と仲間と始めたのが屋台のダーバー。店の開店に合わせて野郎だけのミュージカルになるのだが、スパイスを潰す音、鉄板焼きのコテの金属音などS.E.だけのイントロは、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(2000=デンマーク)の工場ミュージカル・ナンバー「cvalda」よりひと足早い。
この屋台は成功し、ラグーたち、同じ集合住宅に住む悪ガキ連中は家族に認められる。父親も「かなり稼いだな」と、もう彼を子供扱いできないことを知る。この悪ガキ仲間で印象強いのが、ラグーの親友で弟分(サンジャイ・ナルヴェーカル)。彼のエピソードも泣かせる。
母は再婚していて、呑んだくれの義父と口喧嘩が絶えない。氣の短いサンジャイは一度、罵詈雑言を吐く養父に平手打ちを喰らわすが、逆に母親から激しく怒られる。「いくら呑んだくれで、血の繋がっていないとは言え、卑しくも父親を殴るとは何だ!」というわけだ。さすがのサンジャイもシュンとしてしまう。長屋然とした集合住宅チャウルでの話だから、このバツの悪いところもしっかり仲間に見られている。けれど、彼らはそれでサンジャイをからかったり、イジメたりはしない。皆どの家も似たような境遇だからだ。こういう地域に根差した共同体意識は、かつては日本でも珍しくなかったのだが今は絶えて久しい。
そのサンジャイが屋台で稼いだ金を持って家に帰って来る。家では呑んだくれの義父が例によって酒を買う金をせびっている。母親はやりくりしながらの料理で忙しい。そこへサンジャイが「これで、ファースト・クラスの晩飯を作ってくれよ」と母親に稼いだ金を渡し、義父にも小遣いを渡すのだ。
そんなサンジャイがキー・パーソンとなって、ラグーの人生を狂わせてしまう。深夜営業中、酔客と彼がトラブルを起こす。相手は、パンダヤー・ファミリーのゴロツキだ。この時はラグーが間に入って、平謝り事無きを得る。サンジャイ・ダット主演作だからゴロツキどもを一発でのしてしまいそうに思えるが、そうならないのは彼はまだ少年で、社会的階層も低い設定だからである。
再びゴロツキが現れ、名指しでサンジャイを呼び出しては小突き回し、遂に氣の短い彼はゴロツキに飛びかかる。呆然となって見守っていたラグーもゴロツキが拳銃を取り出すに及び、屋台の鉄板で彼らを殴り殺してしまう。こうして、ラグーとサンジャイは人殺しとなる。
裏路地に逃げ込み怯えるふたりに彼らの家族が駆けつけ、母親は警察へ行くように主張するが、同じ集合住宅に住むキシャーン(ディーパック・ティージョリー)が、警察に行けばもっと厄介なことになる、と、この件で地元のボスに助けを乞う。これがアーシーシュ・ヴィダヤールティー扮するヴィタール・カンヤー。今回は片目で、眉間に金色のイボがあるメイク。けれん味たっぷりの芝居を見せ、その上、前半のうちに敵対組織から射殺されてしまう、という観客へサービス満点のキャラクターだ。
パンダヤーに仲介するのが、地域の代表であるスルマーン(パレーシュ・ラーワル)。質素な一人暮らしをするムスリムで、それだけにどこか謎めいている存在。男氣を感じさせる死に様をラストで見せる。
このバイプレーヤー二人でも十分癖があるが、これにモーハン・ジョーシー扮する悪徳大臣カダムが加わる。 パンダヤーの兄貴分を殺しアンダーワールドで名を成したラグーに目を付け、汚れた仕事を処理させようというマハーラーシュトラ州政府の大臣。本来、彼はローワー・ミドル・クラスのために集合住宅や失業対策に腐心しなければならないが、その立場を利用し私腹を肥やしている。このカダムの庇護下に入ることで、ラグーたちは咎めなくシャバで暮らし続けられるようになる。
ヒロイン、ナムラター・シロードカルが登場するのは中盤。役どころは赤線の娼婦ソニア。サンジャイに馴染みの娼館へ連れられて行ったラグーが、見初めるのが彼女。元ミス・インドのナムラターが娼婦とは驚きだ。ソニアの衣装は役柄から派手だが、アクセサリーなど安っぽいのがよい。実はラグーは娼館通いが初めてで(拳銃を持った童貞!)、この時はその氣になれず金を置いて帰ってしまう。逆にその純情さがソニアの心を打つわけだ。ちなみに、サンジャイは馴染みの娼婦に「私のシャー・ルーク・カーン!」と呼ばせているのが笑える。
結局、ラグーはその娼館を足繁く通い、やがてソニアはわざと彼の子を妊る。それを知ったラグーは怒って帰るが、普通なら「客の子を宿すとは!」と更に激怒しそうな娼館の女将が彼女の想いを知って慰める。この女将が、「コイラ」Koyla(1997)でも同じ役どころだったヒマーニー・シヴプーリー。映画のトーンの違いからか、こちらの方が艶があるし、ふてぶてしく、酔って舞い戻ったラグーを彼女が叱り飛ばす。この時、ラグーはソニアを父母に合わせ、家庭を持つことを誓う。まわりの娼婦たちが涙ぐむ。売り飛ばされた娼婦たちの哀しい夢だ。
本作のタイトルは「Vaastav(現実)」。わざわざ「The Reality」と英語の副題が付けられている。
では、これが「リアリティ」を狙った映画だろうか? 悪徳大臣が裏で暴力行為を指示している現実。いかにもありそうだ。ギャングスターが娼婦と恋に落ち、すんなり祝福されて家庭を持つ。これが現実? 筋肉隆々のサンジューが、そのまま少年時代を演じてしまう。これがリアリティ?? ソフィスティケートされた欧米的映画観からすれば、古臭いフィクションにしか思えない。現代日本人の目からすれば、幻想もいいところだろう。
だが、インド人の言うリアリティと他の民族が言うそれとは、大きくかけ離れているのではないだろうか。インド人の世界観はむしろ、マーヤー、つまりイリュージョンに根差している。それ故、現実を描くのに我々の目から見れば幻想のように映る手法を使い、マーヤーを通してワースタウ(現実)を見詰めるのだろう。
こんないじらしい(?)シーンがある。通常、ボリウッド映画ではミュージカル・シーンは、いきなり海外へ飛ぶ。恋の妄想を描く借景ロケだ。だが、本作ではカダムが「新婚旅行はまだなんだろ? スイスへ行って来な」と金とチケットをラグーに渡す。これで、ハネムーンのミュージカル・ナンバルー「meri dunya hai(私の世界は)」となる。リアリティと言えばリアリティに根差しているが、インド人観客にとっては間怠るこしい説明的なシーンだろう。そんな手順など要らずに、いつものように想いの世界へ飛べばそれでよいのに。
ジャティン-ラリットの手によるこのナンバル、クマール・サーヌーとカヴィター・クリシュナムールティーのデュエットが耳に心地よいことこの上ない。美しく爽やかなメロディーは本編トーンを忘れさせるほどで、ややハードなストーリーから一息つく効果も兼ねている(蛇足だが、スイスの借景ロケはもうボリウッドの定番で、そのうちスイス名物としてインド映画のロケ隊が観光ガイドに載るのでは?)。
カダムのトラブルを処理し続けるラグーは、「仕事」の最中、書類を操作して儲けるだけのホワイト・カラーへの鬱積した怒りから殺しをしてしまう。カダムは手に余るようになったラグーを売ることに決める。昔、彼らを逃がしたキシャーンは警官になっていて、彼らに逃げるよう告げるが、サンジャイは警察によって殺される。
さて、ラグーの死に様は? 観客は、すでにオープニング・ショットにおいて、人々がジョギングするビーチの片隅でラグーの家族が葬儀を済ませたところを見ており、最初からサンジューが死ぬことを知らされている。警察の追跡は激しくなり、壮絶なラグーの死に様が予想されるわけだ。
彼は家族のために買った家へ逃げ込む。だが、コカインのためからか、ラグーは屋台でゴロツキを殺してしまった時のように怯えきり、家族やソニアを戸惑わせる。しばらくして落ち着き払うと、彼らを寝かせ、母親と庭に出る。ここでラグーは懇願し、母親に拳銃を渡すのだ。この狂った人生に終焉をつけてくれ、と。母親の名前シャンターが、シャンティ(平穏)に由来するであろうことが氣にかかるエンディングであった。
監督のマヘーシュ・マンジュレーカルは本作でヒンディー映画デビュー。裏社会とのつながりが噂されていたりもするが、下層社会に暮す人々への温かい眼差しと演出力には好感が持てる。すべてに触れられないが、チャウルに住む人々の連帯感を示すエピソードもよく出来ている。
今尚、爆弾テロ容疑の審議が尾を引いているサンジューが奇跡の復活を果たし、ミス・インディア1993、ミス・ユニヴァース・コンテスト出場という華々しいキャリアを持ちながら映画界入りして低迷していたナムラターをスターダムに押し上げたのも本作。このトリオで新作が準備されており、そちらにも期待したい。
*追記 2010,12,19
>スイスの借景ロケはもうボリウッドの定番
ゼロ年代通してボリウッドの海外ロケは世界40ヵ国以上に膨れあがったため、スイス・ロケの比率は下がったものの、「Veer-Zaara(ヴィールとザーラー)」(2004)でもインド人の心象風景としてアルプスの高原ロケが行われている。さすがはスイスから表彰されたヤシュ・チョープラー監督だけある。
>サンジャイ・ナルヴェーカル
この時期、すっかりサンジャイ・ダットの弟分的ポジションとなったかに見えたが、その後、出演作は激減。マラーティー映画などに活動の場を移した模様。
>マヘーシュ・マンジュレーカル
長編第1作となる本作の翌年には、なんと監督作が4本公開。破竹の勢いで、ボリウッド本流とは異なる市井の視点を持った作品で問題意識を提唱してゆくかに見えて、自身がアウトロー役者として活動することに傾倒してしまい監督業の放棄が惜しまれたが、ここに来て新作「City of God」(2010)が公開。役者としては、単なる飲んだくれゴロツキ役者に終止するかと思えたが、「スラムドッグ$ミリオネア」のドン役以降、乗りに乗って来て「Wanted」(2009)の不良警官、「Mi Shivajiraja Bhosle Bolttoy!」(2009=マラーティー)のシヴァジー役、「Teen Patti」(2010)の凄みまくる兄貴、「Dabangg(大胆不敵)」(2010)の飲んべえ親父など、チャーミングな演技力を身につけ、ボリウッドの重鎮になりつつある。
>har taraf hai ye shor
サンジャイがスポンサーとなって開催されるお祭りナンバル「har taraf hai ye shor」はCDと本編のメロディーが別バージョンとなっている。CDバージョンは、コーラスの後、サンジャイのプレイバックであるヴィノード・ラトールのパートがシャー・ルク・カーン主演「Chalte Chalte(ゆきゆきて)」(2003)の「dadariya chalo」(ウディット・ナラヤン)にそっくり。年代的には先行しているため、ジャティン-ラリットが「Chalte Chalte」で再利用した、ということになる。
なお、CDと本編で歌詞やアレンジ、プレイバック・シンガーが異なるケースは、しばしば見られる。