The Japanese Wife(2010)#108
製作:サンジーヴ・ゴーエンカ、アプルヴ・ナーグパル/監督・脚本:アパルナー・セーン/原作:クナール・バス「The Japanese Wife」/撮影:アネイ・ゴースワーミー/音楽:サーガル・デーサーイー/美術:ゴータム・ボース/プロダクション・デザイン:マレイ・バータチャルヤー/編集:ラヴィランジャン・マイトラー
出演:ラーフル・ボース、チグサ・タカク(高久ちぐさ)、ライマー・セーン、モーシュミー・チャッテルジー、サグニク・チョウドリー
(ベンガル語/日本語)
公開日:2010年4月9日(日本未公開)
STORY
インドの片田舎に暮らすシネモイ(ラーフル)は、遠く離れた日本に住むミヤギ(チグサ)と文通を通して密かに「婚姻」している。ある日、後家となった幼馴染みのサンディヤー(マイラー)が伯母(モーシュミー)を頼ってひとつ屋根の下に同居するようになり、シネモイはかすかに心揺れ出すが・・・。
Revie-U
数年前から、日本を題材としたインド映画ということで話題となっていた本作。撮影は2008年頃に終了し編集も為されていたようだが、本年になってようやくインドで公開となった。
映画は、コルカタ港に日本からの荷物が届くところから始まる。
この荷物、船便のコンテナ輸送ながら桐箱に和紙をあしらった「勘違いジャパネスク」調。おそらくプロダクション・デザイナーが「遙か異国にある、古き良き日本」をイメージして、腐心してこしらえた力作であろう。
(オープニング・タイトル・バックも「東洋」風のフォントをデザインして用いているが、凝り過ぎて読めない)
これに冒頭から、ミヤギとシネモイの文通がナレーションとして語られるが、この英語台詞には正直困惑してしまう。日本人が英語を不得意としている前提なのだろう(後半、少しづつ上達する設定)。シネモイ役のラーフル・ボースも、ここはあえてたどたどしいアングレージ(英語)と合わせている。
そう、日本人からすれば噴飯物の、どこにもない「美しきヴァーチャルな日本像」という訳だ。
もっとも、これでインド側を責めるのは筋違いと言える。
我々日本人も一般的にはインド人というと「男はターバンを巻き、毎日カレーを食べている」とか、インド映画と言えば「オヤジが太った女優とすぐに踊り出す」といった程度の認識なのだから。
それに、このように現実離れした偏った日本のイメージは、つまるところ、日本人が世界有数の金満国となりながらも日本文化を(アニメ以外で)映画を通して世界へひろめようとはしなかったことが大きいはずだ。
一方で、本作におけるこれらの思い違いは、バブル成長のまっただ中にありながらもインド人が伝統文化や感性を忘れずにいて、自分達のように日本人が今も自国の伝統文化を根強く守っている、と誤解しているようにも思える。
この過剰な思い入れによる「古き良き日本」をある程度割り引いてみると、シネモイと後家のサンディヤーやその息子パルトゥーなどの心のやりとりがしっとりと描き込まれ、なかなかに心に染み入る小品となっている。
監督は、ベンガル映画界の女流監督/女優のアパルナー・セーン(娘は、かのコンコナー・セーン・シャルマー)。
「36 Chowringhee Lane」チョウランギー通り36番地(1981=ヒンディー/ベンガリー)で監督に進出し、ゼロ年代に入ってからは製作ピッチを上げて意欲的に監督業に取り組み、アート系映画故、製作規模から来るユルさはあるものの、その技量は1作ごとに上がって来ている。
本作でもベンガルの情感を豊かに伝えてはいるが、「日本」部分での演出が全体のバランスを崩していることは否めない。
主演は「Mr.ヒングリッシュ(インド英語の映画)」ことラーフル・ボースで、アパルナーの作品はヒンドゥー/ムサルマーン(イスラーム教徒)のコミュナルな題材を選んだコンコナー共演「Mr. and Mrs.Iyer」(2001)に続き3連続主演となる。
シネモイとミヤギは一度も会わずして「夫婦」としての文通を続けるが、プラトニックでは留まらず、彼女を想って「独りで小舟を揺らす」芝居も厭わず。
近年、アート系に限らず、ボリウッド中枢の小粒映画に活動を広げている彼からすると、今回はアベレージ(良いけれど、最高に良いではなくて)。

(c) Sa Re Ga Ma, 2010
むしろ、本作の印象を惹き立てているのは、やはり後家役のライマー・セーンだろう。
幼い頃からシネモイに想いを寄せつつ、後家となって戻ってからもまるで少女のようにシネモイに対して恥じらいを見せる。彼が「日本人妻」に想いを馳せていることを受け入れつつも、自分の境遇に苦悩する様を切々と演じる。
特に、エンディングで「寡婦」となって訪ねて来た「日本人妻」を、まったく台詞によらず、同じ男を愛した存在として心深くから迎え入れようとする立ち芝居が素晴らしい。
ちなみに彼女も、モノクロ版「Devdas(デーヴダース)」(1955)でパローを演じたスチトラー・セーンを祖母に持つ映画一族出身で、クリシュナの到来を夢想する主婦「Mere Khwabon Mein Jo Aaye(夢に出て来て)」(2009)やラーフルとの共演「Anuranan(残響)」(2006=ベンガリー)などが佳い。
また、「Roti Kapada Aur Makan(衣食住)」(1974)で可憐なヒロインを演じていたモーシュミー・チャッテルジーが伯母役で配役。シネモイを慕うサンディヤーの息子パルトゥに扮した子役サグニク・チョウドリーが瑞々しい演技を見せ、インド人俳優たちの劇中人物がそのまま人生を生きているような高い演技力には感嘆してしまう。
国民映画「Sholay」炎(1975)もそうであったが、嫁いだ男と想いを寄せた男を二度も失うのは「寡婦」という不運な存在ゆえか。
インド映画は、このへんの運命的な設定をわりと残酷に描いていて、「Kites」(2010)も貧しさから這い上がろうと金持ち階級に飛び込んだつもりが、そこに馴染めず貧しい出自同士で結びついたようにも取れる他、金持ちと貧乏人の友情物語でも結局病死するのは貧乏人の方だったりするアクシャイ・クマール&ボビー・デーオールの「Dosti(友情)」(2005)などという例もある。
さて、日本ロケを敢行しながら日本での劇場公開/映画祭上映すらプロモーションした様子がないところを見ると、そもそも当初から日本人に見せることは考えておらず、凧上げ合戦で和凧をインド国旗のパタング(凧)が破るスケッチなどからして、「異国日本」をメタファーに自分達の文化を炙り出しているだけとも取れる。
琴をフィーチャリングしたエンディング・タイトルバックなど、なかなか心地よかったりするのだが。
なお、原作者のクナール・バスが、通りを歩くシネモイとぶつかる通行人の役でカメオ出演している。
*DVDのジャケットに「PAL」表示とあるが、米市場対策用の「なんちゃってPAL」のため、中国製プレイヤーやPCでの再生は可能。環境が整っている人は、迷わずどうぞ。