Love Aaj Kal(2009)#034
Love Aaj Kal(ラヴ、今昔) 09.11.03 ★★★★
ラヴ・アージ・カル
製作・主演:サイーフ・アリー・カーン/製作:ディニーシュ・ヴィジャン/監督・脚本:イムティアズ・アリー/撮影:ナタラージャー・スバラマニアン/作詞:イルシャード・カミル/音楽:プリータム/振付:ボスコー・カエサル、サロージ・カーン、アシュレイ・ロボ/背景音楽:サリーム-スレイマン/プロダクション・デザイン:テディ・モーリヤ/編集:アールティー・バジャジ
出演:ディピカー・パドゥコーン、リシ・カプール、ラーフル・カンナー、フローレンス・ブルードネル・ブルース、ジセリ・モンテヤロー、ラージェンドラ・ズトシー
公開日:2009年7月31日(年間トップ3ヒット/日本未公開)123分

(c)Eros International, 2009.
STORY
出会った晩にそのままメイク・ラヴして付き合い始めたNRIのジャイ(サイーフ)とミーラー(ディピカー)。1年後、ミーラーのデリー行きに合わせてさっぱりブレイクアップすることに。ジャイはロンドンに残り、それぞれ恋人を作るが・・・。
Revie-U
カリーナー・カプールにFilmfare Awards主演女優賞をもたらした「Jab We Met(私たちが出会った時)」(2007)で高評価を得たイムティアズ・アリー監督に惚れ込んだサイーフ・アリー・カーンがイルミナティ・フィルムズを設立し初プロデュース。
舞台は、ロンドンからスタート。出会ったその日のうちに肌を重ね、1年余り(16分)でサッパリ別れる、<今どき>のインド人。それだけでなく、別れを記念して<ブレイクアップ・パーティー>を開く。
イムティアズは、エピソードを細切れに描き、まるで主人公から身を引いて感情移入させまいとしている居心地の悪さを演出。それは、この段階でのふたりをよしとしていないから。
ここに介入してくる、おせっかいな<昔ながら>のインド人がリシ・カプール扮するヴィール・スィン。その名から解るように、ターバンを巻いたスィク教徒のパンジャーブ人である(その時の心象が表されているかようなターバンの巻き方違いにも注目)。
「Jab We Met」でひとり傷心するシャーヒド・カプールへ勝手に深入りしては事態を悪くしていったカリーナーの役どころもパンジャーブ人であったが、その継承というよりは、西洋人と変わらぬライフスタイルを持つNRI(在外インド人)の主人公たちと対比するインド人アイデンティティのメタファーとして配置されているように思える。
別れた後もメールや国際電話で新しい恋人などを四六時中に報告し合う<今どき>描写にインサートされるのが、若かりし(1965年)ヴィールの恋物語。これをサイーフがWロールで演じ、ターバンに髯面の凛々しい姿を見せつける。映画が転がり始めるのは、この若きヴィールが画面に登場してから。
サイーフは今年39歳になるせいか、目元あたりが母シャルミラー・タゴールを想わせるようになった。

(c)Eros International, 2009.
この過去シーンのプロダクション・デザインが実に佳い。くすんだトーンは単にアンバーのフィルターをかけてセピア調に見せるといった安易な手法でなく(色調そのものはデジタル調整のようだが)、60年代の古きよきインドの街並みが再現され、ハリウッド化が進む<今どき>のボリウッドに嘆くインド人はこのノスタルジアに溜飲物だろう。
それにしても過去シーンをしっかりと再現できるボリウッドは、映画産業としての成熟が伺われる。時代物となると作り物めいたセットや安っぽい衣裳で済ましてしまう現在の日本映画界に見習って頂きたいものだ。

(c)Eros International, 2009.
若きヴィールが想いを寄せるもうひとりのヒロイン、ハルリーンに抜擢されたのが、ブラジル人モデルのジセリ・モンテヤロー。透明感あふれる美人で、初々しい乙女というキャラクターから台詞の少なさに無理がない(例によってアテレコのようだ)。
ラーハト・ファテ・アリー・ハーンの歌声がうるおいをもたらす回想ナンバル「aaj din chadheya」中、見初めたハルリーンをひと目見ようとヴィールがデリーから遥々カルカッタまで訪ねると、彼女がバルコニーに表れる。通りに出るが彼を素通りした彼女は、ドゥパッターの下から彼が好んで飲むブラックコーヒーを道端に置く。ヴィールも差し入れを持参しており、ふたりはバルコニーに通りと離れてそれらを口にするが、見つめ合い、心はひとつ。「ラジュー出世する」Raju Ban gaya Gentleman(1992)で睦み合ったジュヒー・チャーウラーとシャー・ルク・カーンを想い出すスケッチだ。
どちらかというとイムティアズの演出は今見たように、人目を氣にするが故に繊細な感情が躍起する<昔ながら>の恋愛描写に肩入れしているのは確かだろう。
夜、ハルリーンがひとり、バルコニーでブラックコーヒーを隠れて飲むシーンもそうだ。無論、彼への想いに駆られてのこと(彼女が知ったほろ苦さは後に恋愛の苦さとなる)。この時、バルコニー下の通りにあえてランタンを抱えて走りゆく人たちを配置し、より叙情的に描き込んでいる。
この過去シーンを一氣に見せず、小出しに語っているのがスパイスの妙技。
イムティアズのこだわりが伺われるのが、劇中使われるディッリー(Dilli)という単語。首都デリーはローマナイズではDelhiのスペリングでヒンディーだとDilliと綴りディッリーとなるが、ウルドゥーではデヘリーとなる。
劇中、サイーフの「デヘリー」をリシが「ディッリー」と訂正するのは、ヒンディー/ウルドゥーの発音違いではなく、Dil(心)に掛けてのこと。
ヒンディー絡みで触れると、本作のタイトルは「Aaj(今日/今)」+「Kal(昨日・明日/以前)」であるが、「Aajkal」と続けると「今日(こんにち)/最近/近頃」となる。本誌20号などでは「今どきのラヴ」と訳したが、映画の内容に寄り添う形で本稿では「ラヴ、今昔」にしてみた。
ちなみに、英語字幕では省略されているボリネタをここで。

(c)Eros International, 2009.
婚約を申し込んだヴィールが殴り倒されるエピソードで「映画スターのつもりか?」との台詞に続く映画スターの名は、ダルメンドラ(アミターブ・バッチャン共演「炎」Sholayが伝説的メガヒット。サニー&ボビー兄弟の父)、ディリープ・クマール(モノクロ版「Devdas」、歴史超大作「Mughal-e-Azam(偉大なるムガル帝国)」など50〜60年代のトップスター)、デヴァナン(=デーヴ・アナン/永遠のロマンススター)という当時のトップスター御三家だ。
また、現代シーンでジャイとミーラーに別れ話が持ち上がる時に、サイーフが口にする「ロミオ-ジュリエット、ライラー-マジュヌー、ヒール-ラーンジャー」は、アラビアからペルシア、そしてインドまで広く愛されるイスラーム古典文学「ライラーとマジュヌー」、パンジャーブ文学での代表的「ヒールとラーンジャー」の事。どちらも「ロミオとジュリエット」に匹敵する悲恋の代名詞で幾度となく映画化されている。
「オーム・シャンティ・オーム」Om Shanti Om(2007)のインスパイア元となった「Karz(借り)」(1980)のクライマックス・ナンバル「ek hasina thi ek diwani tha(ひとりの美しき人がいた、ひとりの恋狂いがいた)」の冒頭、主演のリシによる口上でも「ロミオ-ジュリエット、ライラー-マジュヌー」が言及されている。
ヒロインは、サイーフが強く推したカリーナーを突っぱねてイムティアズが要求したと言われるディピカー・パドゥコーン。出演作第4弾がサイーフ初プロデュース作とあって話題騒然。アクシャイ・クマール共演「チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ」Chandni Chowk To China(2009)の1.7倍にあたるオープニング記録で現在2位(1位はアッキー×カリーナー「Kambakkht Ishq (トンデモない恋)」)。
例によって、美しさと愛らしさはパーフェクトながら、シリアスなシーンとなると台詞まわしのつたなさが露呈してしまう。本作と同じくリアルな設定だった「Bachna Ae Haseeno(可愛い娘チャン、ご用心)」(2008)でのランビール・カプール相手では氣にならなかったが、演技と存在感で圧倒するサイーフとではハンディがあり過ぎる。ダンスは上達しているだけに、今後の成長に期待したい(マードゥリー・ディクシトもはじめはつたなかったのだから)。
ついでに言えば、第5作となるサルマーン・カーンとその弟との共演作「Main Aurr Mrs Khanna(私とミセス・カンナー)」(2009)が公開2週目で4位にランクイン中。
コブラ使いのメロディをサビにフィーチャルしたクラブ・ナンバル「twist」でジャイが新たに恋に落ちるのは、日本のファッション・ウォッチャーからも「セレブ」として注目されている白人モデルのフローレンス・ブルードネル・ブルース。
ディピカーの相手役となるのが、ずっと啼かず飛ばずだったラーフル・カンナー。ミトゥン・チャクラワルティーをリスペクト復活させた「Elaan(宣戦布告)」(2005)で消息を絶ったかに見えたが、このところ出演ペースをぐっと上げ、サントーシュ・シヴァンの演出・映像美ともに上出来だった「Tahaan」(2008)が「タハーン 少年とロバ」の邦題でこの秋、NHKアジア・フィルム・フェスティバルにて上映された。
<今どき>の作品らしく、ランニング・タイムは123分。また、ハリウッド映画標準のパナヴィジョンで撮影されている(全編でなく、通常のドイツ製アリフレックスとの併用か)。
<今どき>らしいのは、登場人物も然り。SRK主演「Rab Ne Bana Di Jodi(神は夫婦を創り給う)」(2008)もそうであったが、カップルとなるメインリードにフォーカスし過ぎで、あの愛すべき脇役たちがすっぽり外されてしまっているのが寂しいかぎり。
プリータムのソング・ナンバルはそつなく仕上がっているものの、(いつもより)ややパンチに欠け、むしろサリーム-スレイマンのコンビによる背景音楽の方が映画に味わいを与えているように思える。
*この先、結末/ストーリーの核心に触れてゆきます。
後半、それぞれ恋人を得、ミーラーには結婚話が持ち上がり、そこでクライマックスとなるのが、これまでのラヴ・ストーリー。本作は、一瞬失速するも、さらに終盤に向けてギアの入れどころが用意されている。
「Jab We Met」が現代版「DDLJ」(1995 )と評されたイムティアズであるが、ミーラーの結婚式をただ参列して行動に起こさないジャイからすると本作は「Kuch Kuch Hota Hai」何かが起きてる(1998)に対応しているとも思える(ボディタッチで相性の良さを伝えているところなども)。
その後、成田離婚ならぬメヘンディ離婚(花嫁の手に施された祝福のメヘンディが消えぬうち)に至りそうになるも、ジャイからある<試練>が提案される。出会ったその日の内にメイクラヴ、遠距離恋愛が苦痛であれば即ブレイクアップ、四六時中、モバイル(携帯電話)で話をしていなければ心が結びつかないと思っている<今どき>の恋愛に蹴りをつけようと言うわけだ。
ジャイが愛の満願ポイントとしてサンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジに賭けたのは、過去シーンの象徴となるコルカタ(旧カルカッタ)のハウラー・ブリッジとの対比から。
イムティアズが<昔ながら>のロマンスを奨励しているのは、ミーラーの仕事がフレスコ画の<修復>にあることからも伺われる。
サイーフの印象力は申し分ないが、全体的にやや押しが足りなく思えるのは、やはりディピカーの技量不足によるところが大きい。この点では、カリーナーの配役が叶わなかったのが惜しまれる。サイーフ×カリーナーのジョーリー(Jodi=カップリング)・フィルムは、カラン・ジョハール製作「Kurbaan (犠牲)」(2009)に期待したい。

(c)Eros International, 2009.
ボリウッド映画によくあることだが、メインリードのふたりに重点が置かれる余り、鞘当てとなる配役が疎かになることがある。本作も後半、ジャイが入れ込むはずの恋人役、フローレンス・ブルードネル・ブルースなど「セレブ」とのことだが、ナンバル「twist」中に登場しても輝きはまったく感じられず、どこの素人かと思ってしまう。ほとばしるディピカーと比べると天と地だ。稚拙な台詞まわし、芝居の不味さもさることながら、ロマンスをもり立てるエピソードも奢られず、演出的にもほとんどやる氣が注がれていないので可愛そうなのだが。
これは、ミーラーの婚約者となるヴィクラムにしても同様で、プロポーズのシーンすらなく、単に台詞上での事後報告となる。ラーフルの薄い存在感とも相まって、どうでもよいキャスティングだったかのようにさえ思える。
またなんと言っても、ヴィールの自宅が明かされるエンディングが実にボリウッド。ここに登場する美人がリシ・カプール本人の最愛の妻ニートゥー・スィン・カプール(そう、ランビールの母)。リシとニートゥーのジョーリー映画に胸躍らせたインド人観客なら、ここでジャイとミーラーが末長き幸福にあるであろうことが読みとれる仕掛け。ここでリシにとって誰なのか、知っているか否かで映画の味わいが変わってくる醍醐味は他国映画では早々味わえまい。
この手の観客サービスは年々エスカレートしており、ボリウッド開国に立ち後れた日本にとって、ますますハードルが高くなってゆく一因にもなりそうだが。