Barsaat(2005)#083
「Barsaat(雨)」 ★★★☆
バルサート
製作・原案・監督:スニール・ダルシャン/脚本:ロビン・バット、シャーム・ゴーエル/台詞:K・K・スィン、ルミー・ジャフリー/撮影:W・B・ラーオ/作詞:サミール/音楽:ナディーム-シュラワーン/振付:ラージュー・カーン/背景音楽:サリーム-スレイマン/プロダクション・デザイン:スレーシュ・バンサーリー/美術:ドリームズ・クラフト/衣装:マニーシュ・マルホートラ/編集:サンジャイ・サンクラー
出演:ボビー・デーオール、ビパーシャー・バス、プリヤンカー・チョープラー、シャクティ・カプール、シャラート・サクセーナ、ガジェンドラ・チョハーン、マヘーシュ・タークル、ヴィヴェーク・ヴァスアーニー、ヴィヴェーク・シェイク
友情出演:ファリーダー・ジャラール
公開日:2005年8月19日(日本未公開)
STORY
アメリカに渡ってカー・デザイナーとなったアーラーヴ(ボビー)は、華僑の寺院で出会ったアンナ(ビパーシャー)と恋に落ち、自動車会社を所有する祖父(シャクティ)からも結婚の許しをもらう。そこへ父危篤の手紙が届き、アーラーヴはインドへ帰国するが、それは新婚初夜に旅立たれて3年も経つ嫁カージャル(プリヤンカー)を慮った家族の方便であった。アーラーヴはカージャルに離婚を迫るが・・・。
Revie-U
インド映画が日本定着しない要因として、インドの伝統文化が知られていないこと、独特の映画文法によりハードルが高いことが挙げられる。本作は一見なんてことのないメロドラマながら、これが解っているとぐっと面白みが増す一例となろう。
冒頭に描かれる雨にまつわる少年時代の夢(夜、寝ている時に見る方)は、これまたインド映画の定番。
日本では、すでに40年ほど前に書かれた藤子不二雄の漫画入門に「夢がオチになる4コマ漫画は古い(ダサイ)のでやめよう」とあり、その<古さ>がシリーズの顔になっていた「男はつらいよ」シリーズの終了以降、TVのコントでもまず見られない。
相も変わらずボリウッドで夢のシークエンスが描かれるのは、インド人がこの世をマーヤー(幻想)と見ていることと、映画にリアリティを求める日本人と違ってそもそも映画は「絵空事のお話」と解り切っているからだろう。
主人公アーラーヴは、シムラーの寄宿学校を卒業してアメリカに渡ったカー・デザイナーの卵という設定。もっともロケ地は南アフリカで、物語上とロケ地が違ったまま平然と通してしまうのもボリウッドお家芸のひとつ。
さて、ストーリーの本筋はアーラーヴが<運命の人>と出会うシーンから始まる。見るからにアフリカ的なジプシー・テンプル(DVDの英語字幕ではChinese。実際は、おそらくただのガーデン・パーティー・スペース)で、アーラーヴとアンナがおみくじを引き合い、その後、何度も街で出くわす。
これもボリウッドの定番で、ボビーに限っても「Ajnabee(見知らぬ隣人)」(2001)の冒頭が同様。
インド人でもヒンドゥー信仰はマルチ・ゴッド・システム(いわゆる多神教)ということもあり、「DDLJ」(1995)はじめ、お祈り好きで異教徒の教会・寺院参拝や聖地詣でがよく描かれる(本作のアーラーヴもヒンドゥーであり、首にオームのペンダントを下げている)。
アンナとの出会いは、まさにウパールワーラー(天の人=神様)の導きとなり、アーラーヴは「BMW」にカー・デザイナーとして雇われ、間もなくアンナの祖父が会長であることも判明し、さらには結婚も許される。
フェラーリやBMWといったディーラーに撮影協力を取りつつ、いちゃつきナンバル中はアルファロメオだったりするのも<定番>のご愛敬。
ここでアーラーヴのもとに「父病氣、すぐ帰れ」の手紙が届き、アンナに電話でその旨、伝えての帰国となり、第1幕が終了。
飛び立つ飛行機に軽快なリズムが重なり、場面は一転、インドの寺院でドゥルガー・プージャーを祝うダンディヤー(ドゥルガーの剣に見立てたスティックを二人組で打ち合う盆踊りにも似たグループ・ダンス)・シーンとなり、カージャルの登場となる。
ヒマーチャル・プラデーシュあたりの実家に戻る道すがら冒頭にもあった少年時代の雨にまつわるアーラーヴの回想となる。それは、幼馴染みのカージャルが許嫁(いいなずけ)となるも、アーラーヴは長く寄宿学校で学び育つうちにアメリカに渡りカー・デザイナーとなる夢を抱き、単なる幼馴染みという意識となったカージャルとの挙式を若さ故に苦々しく思い、新婚初夜も早々に旅立つ苦い過去の記憶であった。
そして、再会したカージャルに離婚の書類を突きつけ、ここがタイミングの見せどころでもある<インタルミッション(休憩)>となる。
と、ここまでが61分。「父危篤」と連れ戻されながら、なんのエピソードもなく土産の手渡しシーンとなるのは、ゼロ年代の時流でもある上映時間のコンパクト化の波に乗って編集段階でカットしたためだろう。
インタルミッション開け、カージャルが唯一、離婚話を相談するのがバービー(兄嫁)。それも家が信仰するクリシュナ神とラーダー像(恋の神様としての象徴)の祭壇でのこと。当然、この話が神様の「耳に入る」こととなるわけだ。
この後、描かれるのが、アーラーヴがバス・ルームで洗顔中にバービーとカージャルが水道の元栓を止める悪戯スケッチ。「パニ(水)! パニ!」と叫ぶアーラーヴにバケツの水をカージャルが振りかけての<濡れ場>となる。
もちろん、これが悪戯によるのは、子供時代が悪戯好きで知られるクリシュナのリーラー(遊戯)が働いてのことであろう。スケッチの終わりに現れるパンツ一丁の甥っ子を幼いクリシュナに見立てて、というのは深読みし過ぎか。
パニはヒンディー語教本的には「水」となっているが、「雨」や「海」にも使われる。本作のタイトル「Barsaat」は、ラージ・カプールの1949年版やボビーの1996年版など「雨季」と紹介されるが、単に「雨」も意味する。本作も雨季を通して語られてゆくが、カージャルとアーラーヴの運命を象徴しているのが単発の雨であることから、訳題としては「雨」が相応しい。
雨は欧米映画では悲しみのメタファーとなっている。しかし、暑さの厳しいインドだけあって、雨は天の恵み。転じて天の祝福、雨季とその始まりであるサーワン月は「恋の季節」とされる。
やがて、高橋 明先生の「インド映画はお祭りがいっぱい」に書かれていた「タラークは外来語」が示される、学生時代の友人たちとピクニックに行くエピソードとなる。
ここでカージャルが、インド人の遊びで有名なアンタークシャリー(フィルミーソングの尻取り歌合戦)でなく、英単語をヒンディーに置き換える「ワード・パワー」なるお遊びを提案。
そして「divorce」を出題する。アーラーヴは「ベリー・シンプル、タラークだ」と答えるも、「それは間違い。タラークはウルドゥー語彙(正確にはアラビア語からの借用語)で、ヒンディーじゃないわ。私たちの伝統に離婚という物はないのよ」と応酬する。
ここは伝統的な価値観を持つインド人の観客にぐっとくるポイントとなっていて、ピクニックの参加者も思わず歌い踊り出す。
神との契約を前提とするユダヤ教や、結婚の際に男女間で契約書を交わすムサルマーン(イスラーム教徒)と違って、ヒンドゥーでは神が認めた、即ち「Rab Ne Bana Di Jodi(神が夫婦を創り賜う)」た故に離婚の二文字(あるいは「タラーク」の四文字?)はない。ちなみに「RNBDJ」で描かれているスィクは、ヒンドゥーとイスラームの影響からなるだけあって、中庸的に例外の場合もあるとしている。
「一年中、毎日がお祭り(儀礼)」と言われるインドだけに、続くエピソードがカルワチョート(夫婦祭と訳されることが多い)。
アーラーヴは遠くデリーの弁護士事務所を訪ねていて、離婚届けの書類を作成してもらっている。ここで弁護士の電話が鳴り、ご丁寧に「妻が今日はカルワチョートだから早く帰って来て、と…」という台詞が入る(離婚の相談に来ている相手に言うのもなんだが)。
カルワチョートは、妻が夫の健康と長寿を願い朝からその晩に満月が見えるまで断食して待つ儀礼祭。実際に婚姻した夫婦だけでなく、婚約中やまだカップルの段階でも背伸びして女性が断食したりする他、「DDLJ」のシャー・ルク・カーンのように男の側も彼女を案じ、結婚への願掛けに断食してみせる例もある。
そんな空腹状態のカージャルに(カルワチョート以外でも夫が帰宅するまで妻は食事を取らない、帰りがどんなに遅くても寝ずに待つのが伝統的なしきたり)、晩遅く戻ったアーラーヴが離婚届けへのサインを強要するのだから、確かに「空きっ腹に哀しみはきついぜ」である。
これまでアーラーヴが「タラーク」を持ち出しても、幼馴染みの強みからか暖簾(のれん)に腕押しの感があったカージャルも「アメリカでアンナが待っている。アンナを愛しているんだ」との言葉に押されてサインしてしまうわけだ。
結婚前に契約書を交わし、そこには離婚時の取り決めをしておく(だからと言って皆が皆、契約解消を実行する訳ではない)ムサルマーンでは、「タラーク」を3回夫が唱えると離婚が成立する。
本作でもこれに倣って、アーラーヴが「タラーク」を口にする場面がここで3回目となっている。
そして、カージャルが実家に戻るにあたって舅(しゅうと)に返すのが、首に提げていたマンガルスートラ(結婚にあたって花婿側から贈られる)。夫の存命を祈って妻はいかなる時もこれを肌身離さず、「Hum Aapke Dil Rehte Hain(私はあなたの心に住んでいる)」(1999)にもあるように、神が結びつけた夫婦は一生離れることはない(それ故、夫の死後、妻も生きたまま荼毘に付される悪習サティーや、未亡人は生きた屍の如く楽しみの場から一生追いやられる弊害もある)。
間もなくディワリの場面となり、「嫁」の不在に浮かぬ顔をしている家族の前へ、カージャルが姿を現す。祭りの日時が解っていないと、実家に追い返されたカージャルがさっそく翌日舞い戻って来たように思ってしまうが、カルワチョートから数週間経っている計算だ。
そして、アンナと彼女の祖父がインドにやって来て、いよいよ結婚式となる。ここは「インド映画はお祭りがいっぱい」の至言「7回廻る前ならキャンセル可」通り。これを知っているインド人観客にとっては、一見ありきたりなストーリーにあって、どんな「水入り」となるかが楽しみとなる仕掛け。
この時、期待に裏切られたアンナが朗々と彼を後押しする台詞を述べ心の広さを示すのは、「Kuch Kuch Hota Hai」何かが起きてる(1998)や「Mann(想い)」(1999)同様、ライバル出演の役者を立てる<習わし>から。
これが同じく結婚を巡る三角関係でも、恋敵が非ボリウッド・スターの英国人俳優である「Namastey London」(2007)ともなると、この<習わし>が適用されず、その場で憎しみを露呈し、無様に描かれる。
監督のスニール・ダルシャンは、兄弟のダルメール・ダルシャンと同じく、やや古風な演出スタイルで保守層狙いの映画を作って来たが、在外志向に走るバブリーなボリウッドの流れに乗り続けられず、スニールがボビー主演の歌手物「Shakalaka Boom Boom」(2007)、ダルメーシュがプリヤンカー主演の「Aap Ki Khatir(あなたのために)」(2006)で映画から離れてしまったのが残念。
主演のボビー・デーオールは、アクション物「Soldier」(1998)など90年代後半の実はマネー・メイキング・スター。ゼロ年代に入ってトップから外れたものの独特の立ち位置を保ち、殿方観客が女性陣に付き合って「じゃあ、ボビーの映画でも観るか」という呼び水になる。
ヒロインのプリヤンカー・チョープラーと、セカンド・ヒロインのビパーシャー・バスは、この時期、まだどちらが格上とも判別出来ぬ拮抗段階で、それ故、ブレイク前のラーニー・ムカルジーとプリティー・ズィンターで結末をスリリングに競い合った「Har Dil Jo Pyar Karega…(すべての心は恋をする…)」(2000)と同じ効果となっている。
ビパーシャーが波風の中、健氣に撮影に臨む戯れナンバル「pyaar aaye(恋の到来)」での、海辺にそびえる山頂が霧に霞む南アフリカ、実家のあるヒマラヤが間近い山岳地帯などボリウッドならではの風光明媚なロケーションが心を和ませる。
濡れ場ナンバル「barsaat ke din aaye(雨季の日がやって来た)」で、アーラーヴとカージャルがサンルームに駆け込み情愛を深めるのは、やはりふたりの妻に悩める「Daag(汚点)」(1973)への敬愛。
結婚が幸多いだけでなく、不幸な結果になることも珍しくない中で、本作は女性客にとっての夢見映画となっている。伝統的な価値観に感動の落としどころを運びながら、慰謝料なしに離婚した後になって幼馴染みの友情から小切手を持って現れたアーラーヴに、「その必要はないわ」とカージャルは自宅の裏で営む手芸品工場を見せる。同時にこれは、離婚後、圧倒的に不利な立場に追いやられるインドの女性にとって、経済的自立の活路を示していることにもなる。
幼い頃から許婚相手の帰りをただひたすら待ち続けたカージャル(目のくまどり)の名からも古風な価値観に押しとどめられた人物設定に見えて、アーラーヴが寄宿学校に行ってから、自分でも英語を習い、実は自立する術を知っていた<先進的な女性>でもあったわけだ。そして、在外志向の強かったアーラーヴがここで密かに<惚れ直している>のが暗に示されていたのだった。
それにしてもアーラーヴは、雨が降れば幼い頃を思い出し(好意的に見れば、無意識の知らせともとれる)、離婚話を突きつけておきながらその実、カージャルの情にほだされ始め、アンナがやって来ればやっぱり彼女と結婚しようとする。まあ、所詮、男はこの程度と示すことも女性客へのサービスとも言えなくもない。
本作のサブタイトル「a sublime love story」のsublimeは「崇高な」だけなく「ひどい」という意味もあるわけで(苦笑)。