3 Deewarein(2003)#024
3 Deewarein(3つの壁)/2003 05.10.05 ★★★★
ティン・ディーワーレン
製作:サンジャイ・シャルマー、エラーヘ・ヒップトーラ/監督・脚本:ナゲーシュ・ククヌール/撮影:アジャヤン・ヴィンセント/音楽:サリーム-スレイマン/美術:デーヴィカー・サーガル、キショール・チョークシー、プラヴィーン・クマール/編集:サンジーブ・ダッタ
出演:ナッスィールッディン・シャー、ジャッキー・シュロフ、ジュヒー・チャーウラー、ナゲーシュ・ククヌール、グルシャン・グローバル、シュリヴァラーブ・ヴヤス、アーディティヤー・ラーキア
特別出演:スジャーター・メーヘター
STORY
妻を殺したジャグディーシュ(ジャッキー)、妻を道路に突き飛ばして殺したとされるナゲンダル(ナゲーシュ)、銀行強盗に押し入り誤って女性行員を射殺してしまったイシャーン(ナッスィールッディン)の3人は服役する刑務所でチャンドリカー(ジュヒー)が監督するドキュメンタリー・ビデオの取材対象となるが、次第に彼女と心の交流が生まれ・・・。
Revie-U *結末には、あえて触れていません。
冒頭から唸らさせられる。ハイキーの画に血の滴。静かな背景音楽が流れる中、妻を抱きかかえるジャッキーの姿。雑踏で妻にまくし立てられている「一般人」のような男。その妻が何者かに突き飛ばされ、走ってきた車にはね飛ばされる。そして、リチャード・プライヤーよろしくアフロヘアと付け髯で変装したナスィールッディーンが金網越しに鼻歌を歌っている。サーリー姿の女性行員が札束を数えている。金網の縁に拳銃。床には人質が伏せている。札束をバッグに詰めたナッスィールッディンが立ち去ろうとしかけた時、女性行員が非常ボタンを押す。ナッスィールッディンは拳銃のスライドを引き、銃弾を装填。女性行員に銃を向けて威嚇しながら後ずさりするが、伏せた人質に躓き倒れかけ、引き金を引いてしまう。銃弾は女性行員を撃ち抜く。茫然とするナッスィールッディン。女性行員の大きな腹部がフレーム・イン。妊婦であった・・・。
タイトル「3 Deewarein(3つの壁)」が示すのは、この不運な3人の男たち。故殺のジャグディーシュ役に、ジャッキー・シュロフ。
ナギヤこと無実のナゲンダル役は、ナゲーシュ・ククヌール。彼は、「Hyderabad Blues」(1998)で監督デビューし、本作では脚本・監督も務める俊英。「Hyderabad Blues 2」(2004)もリリース済み。無論、テルグ映画界出身とあって、ボリウッド映画では見知らぬ顔。道理で「一般人」に見えたわけだ。
最後に登場するのが、銀行強盗ながら不可抗力のイシャーン。演ずるは、「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い」(2003=米)でネモ船長を演じた名優ナッスィールッディン・シャー! オープニングからして最も描写が細かかったのにはそれなりの訳がある……。
これらを迎える刑務所所長モーハン・クマール役がグルシャン・グローバルだ。いつものボリウッドB級C級映画で見せる毎度大仰な芝居でなく、ゆっくりと服役者たちの前に現れるだけで、ひとつの信念を持って職務に携わっていることを伝えるのはさすが!
さて、しばらく刑務所内の描写が続く。インドの警察は拷問をすることで知られるが、この刑務所内はほのぼのとしていて、囚人たちが自由に散歩したりとまるで公園にいるようだ。
そこへ現れるのが、ジュヒー・チャーウラー扮するチャンドリカーという女性ドキュメンタリー監督。取材許可を得るためモーハンとの面接を受けるが、ここでは流暢な英語で会話が進む。もちろん、グルシャンもこれを受けて英語で通すが、「公共性」を意識づけるためであろうか。チャンドリカーは囚人たちとはヒンディーでインタビューしているので、州外から来てヒンディーが話せないということはないのだが(ロケはハイダラーバード)。
実は、彼女にも「秘密」があった。取材を終え、帰宅したチャンドリカーはビデオテープを台所の段ボールの中にしまい、家事のシーンへと続く。やがてベルが鳴り、チャンドリカーは慌てて生え際にシンドゥールをつける。扉を開けると、夫。そう、彼女は主婦だったのだ。
TVを見ながらひとり寛ぐ夫。台所で疲れたチャンドリカが頭を抱える。ふと指先を見ると、シンドゥール。悩める結婚生活だ。
翌日。刑務所内での取材。料理を担当するジャグディーシュ。彼は囚人だが、詩を作る。それを知って、興味を示すチャンドリカー。彼女の表情が輝く。初めて登場した時の黒いチョリーにモスグレーの地味なサーリーから次第に明るい色のサーリーへ。これは、チャンドリカーと彼らが互いに心を開いてゆくことを示しているのだろう。妻殺しの冤罪を着せられたナギヤなど彼女に花をプレゼントするほどだ。
ある晩、酒に酔った夫は先に寝ていたチャンドリカーにのし掛かり、コトを済ます(短いカットだが、なんとジュヒーに!)。そこには愛情は見られず、主婦とは名ばかりの家政婦兼欲望の捌け口でしかない。月明かりの下、涙するチャンドリカーと同じアングルで刑務所のイシャーンが映し出させる。チャンドリカもまた、自由も歓びもない生活から囚人に等しい、とでもいうように。
そう言えば、彼女が制作しているドキュメンタリーのタイトルは、「Prison or Home」であった。
やがて、夫が台所に隠してあったビデオテープを発見する。保守的な夫に反対され、チャンドリカーは夫に内緒でドキュメンタリーの仕事をしていたのだった。夫はテープを踏みにじり、彼女へDVを働く。
囚人たちと交流するうちにチャンドリカー自身にも内面の変化が起きたのか、彼女は夫への復讐に走る。眠っている夫に灯油を浴びせるのだ。やがて気づいた彼。蝋燭を手にしたチャンドリカー。長いことそこに立っていたのだろう。彼女の手には蝋が垂れて固まっている。そして、夫を脅して自己主張する(この時も英語)。
彼女が話す流暢な英語は、その教育程度の高さを表している。ドキュメンタリー撮影の現場でもべーカム(ベーター・カム=放送規格のベーター・ヴィデオキャメラ)を回すのは、女性ビデオグラファーだ。だが、夫は妻が物を考え、自分の意志を持つことを許そうとしない。この復讐の手段も痛烈だ。灯油やガソリンを浴びせた焼身殺人は、しばしばダウリー(持参金)殺人として既婚女性が身内によって殺されるだけでなく、寡婦は「ごく自然に」夫への殉死であるサティーを強いられる。チャンドリカーは、夫が彼女を認めなければ毎晩見張り、彼に火をつける、と迫るが、その脅威は常に女性の肩にのし掛かっている現実でもある。
画面は刑務所で壁画を描くイシャーンへと変わり、ドゥルガー、そしてシヴァとその妻である女神パルヴァティーが半身づつ合体したシャンカラ・パルヴァティーの絵が映し出される。この半男半女の神は、その姿の通り、男性原理と女性原理のバランスを象徴しているのだが、このモンタージュから、男女の愛が揃ってこそ真の夫婦に値すると言わんばかりだ。
ちなみに、ヒンドゥーの教典ヴェーダでは、女性が男性より劣る不浄な存在であるのは、「ブラフマーが初めて創った試作品である無知から女が生まれたため」とされる。
さて、この時のライティングがよい。 撮影監督アジャヤン・ヴィンセントは、電灯の灯らない日中の建物内は窓の外からの陽の光のみ、という照明設計を施している。人物たちの顔半分しか光が当たらず、これもシャンカーラ・パルヴァティーに通じる一方で、人には思いもかけない面があるのだ、と暗示しているかのようだ。
さて、淡々とした刑務所内の日常が描かれ、NHKのアジア映画名作選あたりでひっそりと放映される社会派映画に思えるが、この後、イシャーンの脱獄劇が展開する! これには、なんとチャンドリカーも加担するのだ。しかも、脱獄計画は警官の一人に漏れてしまうが、これを覆すアイディアが用意されている上、チャンドリカーがイシャーンを脱獄させた驚くべき理由が明らかにされる!!
さらに、さらに、「ワイルドシングス」(1998=米)を凌ぐツイストぶりには息を呑む!!!(ただし、三重ともなると少々ダレるが・・・)
サポーティングはチャンドリカーの夫役に「ラガーン」Lagaan(2001)のシュリヴァラーブ・ヴヤス、刑務所ないで男囚にレエプされる囚人役に同じく「ラガーン」でカチャラー役だったアーディティヤー・ラーキア、またイシャーンの弁護士役に製作者のサンジャイ・シャルマーが出演。
製作のイラーヘ・ヒップトーラがファースト助監督、プロダクション・デザインのデーヴィカー・サーガルがセカンド助監督を兼任している。
本作は、いわゆるミュージカル・シーンはないが、サリーム-スレイマンのしっとりとした背景音楽が仄かに観る者を酔わせる。
ナゲーシュ・ククヌールの演出は、自演のナギヤが女房殺しの冤罪で入獄しているというのに、チャンドリカーに花を手渡したりして熱をあげたりするのがナンだが、かなり手堅い手腕を見せる。テルグ映画界の力量の高さが伺われ、少しもダレることなく物語を展開させ、それでいてエンターテイメントな仕掛けも用意するなど感心してしまう。
死刑囚を演ずるジャッキー・シュロフ、ナッスィールッディン・シャーともに実力派のまったりとした演技が堪能できるのがうれしい。
ジュヒーは、愛嬌あふれる豊満ボディからコメディも得意なトップスターであったが、女優生命が短いインド映画界において出産も経たこともあり、近年はアート肌の映画や若手俳優のバックアップにまわり、出演作を伸ばしている。まだまだ彼女には銀幕から離れてほしくないものだ。