Rang De Basanti(2006)#059
Rang De Basanti(浅黄色に染めよ) 06.03.28 ★★★★
ラング・デー・バサンティー
製作:脚本・監督:ラーケーシュ・オームプラカーシュ・メーヘラー/原案・脚本:カムレーシュ・パーンディー/撮影:ビノード・プラダーン/作詞:プラスーン・ジョーシー/音楽:A・R・ラフマーン/振付:ラージュー・スンダラーム、メルチャンド、ガネーシュ・アチャルヤー/編集:P・S・バーラーティー
出演:アーミル・カーン、シッダールタ、アトゥール・クルカルニー、シャルマン・ジョーシー、クナール・カプール、ワヒーダー・レヘマーン、キロン・ケール、オーム・プーリー、アヌパム・ケール、ソーハー・アリー・カーン、モーハン・アゲーシュ、スティーブン・マッキントッシュ、レーク・タンダン、K・K・ライナ、
ゲスト出演:R・マダヴァン
公開日:2006年1月26日 (年間トップ5ヒット!/日本未公開)
STORY
インド独立運動の闘士バガット・スィンの処刑に立ち会った祖父を持つ英国人の女性TVディレクター、スー(アリス・パッテン)は企画が通らぬことに業を煮やして単身デリー入り。ボンクラ学生DJ(アーミル)やカラン(シッダールタ)、右翼青年ラクシュマン(アトゥール)らをキャスティングしてヴィデオ・ムーヴィーを制作。撮影が進むうちに彼らの中に「インド」が目覚めてゆくのだが・・・。
Revie-U *結末にやや触れています。
アーミル・カーンの最新作(レビュー当時)。オープニング早々、「Mangal Pandey」(2005)に続いてまたも絞首刑 シーンが。実は、本作はバガット・スィンら独立運動の闘士をモチーフにしていたのだ。
このバガット・スィンは2002年に、アジャイ・デーヴガン「The Legend of Bhagat Singh」とボビー・デーオール「23rd
March 1931:Shaheed」でそれぞれ主演作が制作されている。「Kal Ho Naa Ho(たとえ明日が来なくても)」(2003)に出て来た双子のバガット・スィンというのはこのこと。
そればかりか、「Ansh(分け前)」(2002)という現代物のC級映画でも中盤からクライマックスに向かって主人公たちが独立の闘士たちに感情移入どころか完全に成りきってしまい絞首刑に臨むなど、多いに面食らったことがあった(マイナー映画だけに、撮影途中からバガット・スィン・ブームに便乗して脚本を変えたのかと思ったほど! 一応違って、オーム・プーリーの役名がバガット・パーンディーとなっている)。
監督は、90年代に引退同然であった、あのアミターブ・バッチャンが復活第1弾として自らのA・Bコープで制作した「Aks(憎しみ)」(2001)にて白羽の矢を立られてデビューしたラーケーシュ・オームプラカーシュ・メーヘラー(ROM)。
先進的な映像美を追求しながら、アミターブが再起を賭けたにしてはあまりにもデーモニッシュな内容であったため、興業的にはフロップで19位止まり。その後、アミターブの活躍とは裏腹に、ROMは封印されてしまったかに見えた。
前半の流れは、バガット・スィンの処刑シーンや独立闘士たちの撮影があるものの、現代インドのごく一面を切り取ったヒップな展開。深夜、デリーを見下ろす砦にたむろしていたDJたちが右翼連中や警官に蹴散らされるや、バイクや四輪に乗り込んで走りまわるシーンは、マルホランド・ドライブあたりを舞台にした安手のハリウッド映画そのまま。
このように、 はじめは自国の文化や歴史など顧みなかった今どきの若者たちが、このインディーズ(!)・ムーヴィーの撮影を通して「インド」に目覚めてゆく。
ボリウッドはこのところNRI映画が盛んだが、遂に外国人の視点から自国を見るようになったか、というのが第一幕までの感想。中盤まではまるでロード・ムーヴィーのような青春群像劇が続く。
本作が本当に転がり始めるのは、主人公たちのひとり、ソニア(ソーハー・アリー・カーン)のフィアンセ、アジャイ(マダヴァン)が事故死してから。
彼は空軍パイロットで、なんとミグ21の訓練中に墜落死してしまうのだ! この展開はいささか唐突で、先鋭的な洋画テイストの演出に反して「インド映画」に思えるものの、実際に旧ソヴィエトが開発したミグ21は(インドでは)相当の確率で墜落しているそうで、またかなりの数のパイロットが死亡し続けているという。
ミグ21はマッハ2を誇ったとはいえ、開発されたのは1960年代。米空軍を震え上がらせたのもヴェトナム時代の話で、1970年にはマイナーチェンジも終了という前世紀の遺物である。ジャッキー・シュロフが「トップ・ガン」(1986=米)よろしく空軍パイロットを演じた「Border」デザート・フォース(1997)でも、いざ乗り込む戦闘機が旧態依然とした葉巻型のミグだったので愕然としたほどだった。
(もっとも、米軍のF-15系にしても1970年代からの代物。2004年に米印で行われた合同演習では、インド空軍採用の最新機スホイー30がF-15Cイーグルに舌を巻かせた、という情報もある)
義憤を感じた主人公たちがパイロットの供養とストライキを始めるや、政府によって弾圧される。この後、彼らはミグ疑惑を持つ防衛大臣を、英霊たちに身を重ね合わせて暗殺してしまうのだ!
韓国人は「ハン(恨)」を心の根底に潜ませているが、インド人はこの世を「マーヤ ー(幻)」と見、インド映画の特色のひとつに「妄想」が挙げられる。
ミュージカル・シーンともなれば、スウィスやニュージーランドへいきなり飛ぶのが常道であったが、妄想ヴィジュアル化の過剰性を一気に解き放ってしまったのが「Main Hoon Na(私がいるから)」(2004)。女教師のスシュミター・セーンに恋い焦がれるシャー・ルク・カーンの妄想により、スシューが教壇の上で色鮮やかなサーリー姿で艶めかしく踊り、実在しない楽師も登場(笑)、教室の中で花火が炸裂するというもの!
「Kyon Ki…(なぜならば)」(2005)では精神のバランスを失ったサルマーン・カーンが入院先の病院で抑圧が強まるや、一転、派手なミュージカル・シーンへと突入。彼の妄想の中で、厳格な看護婦がいきなりボディコンシャスな姿で踊り出し、果ては敵対する院長オーム・プーリーをショック死させる!
この妄想シーンを喜んで見ている自分の脳内に二重の<幻覚>を見てしまったものだが、本作では、義憤を感じた主人公たちが決起するシーンで、彼らが扮した英雄バガット・スィンやチャンドラシェーカル・アザードがインサートされ、彼ら自身を扇動するのだ。
しかも、それが英霊たちに感情移入し過ぎたあまり、撮影中に扮している自分たちのフラッシュバックなのか、時空を超えて現れた本物の英霊としてなのか、判然としない。この集団妄想の伝播は、ある意味かなり危険であるともいえよう。
もっとも、演出的にはかなりチープ。
なにしろ髯先をピンと巻き上げメイクを施したアーミルたちのショットが唐突にインサートされるのだ。それも前半が凝った映像だっただけに、そのギャップは大きい。これでは先のC級「Ansh」と大差ない。
さらには、英霊たちと主人公がモーフィング処理されたり、AIR(オール・インディア・レディオ)をハイジャックし銃撃を受けたDJ(アーミル)と警官に取り囲まれ射殺間際のチャンドラシェーカル(アーミル)がデジタル合成で「実にはっきりと」<マーヤー>がヴィジュアル化される。
「Veer Zaara(ヴィールとザーラー)」(2004)のクライマックスが同様の手腕で為されていささか興醒めしてしまったが、ロマンス物という部分でなんとか許容できた。しかし、本作のような政治的なテーマを内包している作品においては、かなり稚拙な演出と言わざるを得ない。
ただし、この視点はすっかりアメリカナイズされた日本人の目から見た評価でしかなく、実際には若いインド人の愛国心へかなり響いたようで、スーパーヒット級の動員となっている。
バガット・スィン役も兼ね、ラジオ局占拠では主軸ともなるカラン役は、タミル映画「Boys」(2003)で役者デビューしたシッダールタ・スールヤーナラヤン。マニ・ラトナムの下で助監督をしたり、撮影助手などをしていたというから、インディーズ・ムーヴィーに関わる学生役には相応しい。冒頭で見せるバガット・スィン役も凛々しく、聡明なインド青年を久々に見た思いにさせられる。
さて、40の大台に乗ったアーミルの学生役はというと、やはりアップは痛い。しかも、金髪碧眼の若い女性ディレクターを紹介されるや、いきなりナンパ・モードに入るあたりが、元妻とだけでなく、英国人ライター、ジェシカ・ヘインズとの間にも一児もうけていながら、つい先日、「Lagaan」ラガーン(2001)や「Swades(祖国)」(2004)などの助監督キラン・ラーオと結婚したばかりである<新婚>アーミルの情熱的な側面に思い当たってしまう(苦笑)。しかもキス・シーンあり。
アーミルは学生DJと射殺された闘士チャンドラシェーカル・アザードに準じた二役?をこなしているが、ボビー版では実兄のサニー・デーオールが、アジャイ版では「ラガーン」で鍛冶屋を演じていたアーキレーンドラ・ミシュラーが演じていた。
ちなみに、カラン役はリティク・ローシャンに、アジャイ役はシャー・ルクにオファーされていたそうだが、当然ながら、そうなれば違った映画になっていただろう。
兄サイーフそっくりの妹ソーハー・アリー・カーンは、まずまず。ボリウッドでも珍しくなってしまった黒髪がよい。実社会を経験した後の映画界入りであるが、デビューするにはやはり遅かったと思われ、これからの活躍はやや懸念。
ダーバーを切り盛りするDJの母親役にキロン・ケール、ミグ疑惑に絡むカランの父親役にアヌパム・ケール、学生のひとりアスラーム(クナール・カプール)の父親役にオーム・プーリー、ストライキ鎮圧を受け重症を負うアジャイの母親に、往年の大女優にして最近は「Maine Gandhi Ko Nahin Mara(私はガンディーを殺していない)」(2005)など銀幕に復帰しているワヒーダー・レフマーンなど親の世代には実力派を配置。少ない出番ながらも、息子を愛しつつ殺されるアヌパムの存在感が光っていた(ケール夫妻は、共演シーンはなし)。
特筆に値するのは、ガーンディー暗殺を扱った「Hey Ram!(神よ!)」(2000)に続く右翼青年役のアトゥール・クルカルニーだろう。国立演劇学校で学び、演劇界で名を馳せた俊英なのだが、今まではどうも鋭さだけが先走っていたところがあった。
しかし、本作では学生オーディション中の台詞を手に取るや(恐らく英霊たちの言葉として伝えられているのだろう)そらで朗々と語りだすくだりに思わず惹きつけられたほど。
ところで、本作は「Paint It Yellow」というヒングリッシュ・バージョンも同時に制作予定だったそうだが、(撮影が煩雑になるせいか)その企画は頓挫したそうだ。
もう一点、氣になるところが英国人の視点で語り出されているということ。 「Kisna」(2005)もまたそうであったが、あれはスバーシュ・ガイーが「タイタニック」(1997=米)を氣取っていたためであるからここでは除外するとして、よく言われることに「インドの官僚システムは英国人がもたらしたもので、腐敗の構造は英国統治が原因」という論理。
本作でも英国人ディレクターのスーが彼らを撮影に起用しなければ、主人公たちは愛国心に目覚めることなく、普通の人生を歩んでいたかもしれない。
この点はどのような位置 づけでROMは脚本を書いたのだろか? A・R・ラフマーンへのフォーク(いわゆるアメリカのフォーク・ソング)・チューン発注をも含めて聞いてみたいところである。
*追記 2010.09.15
>ラーケーシュ・オームプラカーシュ・メーヘラー
長ったらしい名前は、映画賞で司会を務めたシャー・ルク・カーンが「(トリオ名に思えて)でもひとりです」と笑いをとっていたほど。
最新作は、デリーの都市伝説モンキーマンを題材にした「Delhi-6」デリー6(2009)。アビシェーク・バッチャンがなかなか佳い。ちなみに「デリー6」はデリーの名物下町「チャンドゥニー・チョウク」のこと。映画タイトルは「デリー・シックス」と英語読みで呼ばれたが、現地読みは「デリー・チェー」。
>アーミル・カーンの最新作(レビュー追記時)
本作のアーミル、R・マダヴァン、シャルマーン・ジョーシー共演「3 Idiots」(2009)。アーミルは監督作「Taare Zameen Par(地上の星たち)」(2007)以降、年末公開作戦をとって話題の鮮度がよいうちに年明けから毎月開催される映画賞で賞を獲りまくっている。
「3バカに乾杯!」の邦題で2010年9月20日、したまちコメディ映画祭in台東で上映。それにしてもゼロ年代中トップ1ヒットとなったボリウッド作品のジャパン・プレミアが東京国際映画祭でなく台東区の下町で上映とは…世界に躍進するボリウッドと日本の現状との乖離が表れ過ぎているように思えてならない。
>シッダールタ
本作の後、トリウッド(テルグ映画界)・ベースで活動していたが、地味なキャラン・ボード映画「Striker」(2010)でヒンディー映画に復帰。
「Jaane tu…Ya Jaane Na(わかる? わからない?) 」(2008)でブレイクする前、テルグに流れていたジネリア・デスーザ共演のNo.1ヒット「Bommarillu(人形の家)」(2006)を「Welcome」の監督アニース・バズミーが「It’s My Life」のタイトルでヒンディー化。ヒロインはジネリアが続投、主演に「What’s Your Raashee?(君の星座は何?)」(2009)のハルマーン・パウェージャーを起用。「Striker」の評判もよかっただけに、シッダールタは華々しくボリウッドに復帰できず、地団駄を踏んでいることだろう。
ちなみにこの作品、「Santosh Subramaniam(サントーシュ・スブラマニアム)」(2008)というタイトルでタミル・リメイクされているが、これもヒロインはジネリア。今回のヒンディー・リメイクで同じ役を3度もやることになり、飽きやしないかと心配になるが、ジネリア曰く「It’s My Life」?
>アトゥール・クルカルニー
彼が劇中で演ずる独立闘士ラームプラサード・ビスミルこそ、これまでのバガット・スィン伝記映画の処刑に臨む場面の定番詩で本作のタイトルにもなっている「mera rang de dasanti chola(我が経衣を浅黄色に染めよ)」や「sarfarosh ki tamanna(命賭けの希望)」などを作詩。
ROMは2002年のリメイク2作と当時相次いで起こっていたミグ墜落事件を絡めて本作を構想したと思われ、特に「23rd〜」の方は若い生命が独立運動に散って行ったことを強調するあまりアジャイ分するバガットらの行動がまるでボンクラ学生の愚行コメディ「Golmaal(ごまかし)」(2006)のようであったが、本作でも前半、愛国心に目覚める以前の学生たちがやたらと遊び耽っていることからも発想元が伺える。
本作は2006年度の米アカデミー賞外国語映画賞へインド代表作として推薦される栄誉を勝ち取ったが、受賞はならず。ミグ墜落に対処を怠ったことへの義憤は解らぬでもないが、独立闘士の物語に重ねるあまり、学生が大臣暗殺に走る<テロ行為>は現在の国際社会で受け入れられるはずもなく、この描写のある作品をインド代表としてアカデミー賞に送り出す神経には疑問を抱いてしまうが、これが実際に国内テロ問題を抱え込んだ当事者としての現代インド人の感覚なのだろう。