Being Cyrus(2006)#053
Being Cyrus 06.09.30 ★★★
製作:アムビカー・ヒンドゥージャー、ディニーシュ・ヴィジャン、ラーマン・マッケル、ムンニーシュ・プリー/製作総指揮:A・R・パリギ/脚本・監督:ホーミー・アダジャニア/脚本:ケルシ・カムバティ/コンテ・脚本監修:ハッサン・クッティ/撮影:ジャハンギル・チョウドリー/総合美術:ナヴィン・ケンケル、アパルナー・ライナ/衣装:アナイター・シュロフ・アダジャニア/アダジャニア/音楽:サリーム-スレイマン/音響設計:アンドリュー・バレッティー/編集:ジョン・ハリス、アナン・スバヤー
出演:ナスィールッディン・シャー、ディンプル・カパーディヤー、サイーフ・アリー・カーン、ボーマン・イラーニー、ハニー・チャッヤ、シモン・スィン、マノージ・パフワ
公開日:2006年3月24日 (日本未公開)
STORY
若き放浪者サイラス(サイーフ)は、セフナー(ナスィールッディン)とケティ(ディンプル)の熟年カップルが住む家に転がり込むが・・・。
Revie-U
波に乗っているサイーフ・アリー・カーンの初ヒングリッシュ作品。
バスタブに浮かんだサイーフの俯瞰スチルからして、「マルコヴィッチの穴」Being John Malkovich(1999=米)のパクリ的なキテレツ映画かと思っていたが……。
序盤のガーデン場面など、英語台詞と品の良いストリングス(弦楽器。パーキスターンのロック・バンドでなく)の背景音楽、それにナチュラル・ライティングのルックも加わって、英国産インディペンデント映画を観ているような雰囲氣。つまりは、わざわざ<インド映画>として観るべき意味がないとも言える。
なにしろ、南アジア的な宗教描写は一切なし。 登場するナスィールッディン・シャーはともかく、かのディンプル・カパーディヤーも荒れた素っぴんをさらけ出し、ことさら醜い表情をして見せる(大きくカットされたドレスから惜しげもなく胸元も露出!)。ボーマン・イラーニーにしろ、その妻役シモン・スィンにしろ、普段ボリウッド・メジャーの現場では出来ない非マサーラーな芝居をことさら強調し、流暢な英語を披露したがっているかのように見えてならない。
もっとも、この<洋画ごっこ>はボリシッド(ボリウッド+アシッド)症候群の眼から見ていささか興冷めであるだけで、一般的なアート作品として観れば、まずまずの出来。中盤、サイーフが覚醒するシーンで用意された「ツイン・ピークス」もどきのキッチュな場面や神経症的な演出は、好みの分かれるところだろうけれど。
監督は、ナスィールッディンの出演作「Bhopal Express」(1999)の助監督を経て、本作がデビューとなるホーミー・アダジャニア。役者として「Everybody Says I’m Fine!」(2001=ヒングリッシュ)の端役もこなす、一方、「The Fakir」(2006)の脚本も担当。
デリーが舞台であるのに全編英語台詞であるのは違和感があり、わざわざ英語映画を作らなくても……とも思うが、英語劇とすることで海外マーケットはぐっと広がり、非NRIの観客をも取りこめるのは事実だろう。
ヒングリッシュ映画の製作費は英米のインディーズと比べてもさらに低予算で済む上、ボリウッドの俳優やクルーは高い実力を有しているので、かなりのコスト・パフォーマンスを得られる(トップスター1本分のギャラ以下で十分)。
ゴージャスなマルチ・スター大作傾向が進むA級作品を除けば、ボリウッド・メジャーの平均的な製作費は、日本映画の特A級作品と同等の4〜5億円。一方、大半の邦画は、ボリウッド半分以下の予算をかき集めるのがやっとという有り様。上映サイズと同じ35ミリで撮影される作品は少なく、大半はスーパー16のブロウ・アップ、青息吐息の狭い市場に限定される実に割高な商取引に留まる。
その点、インド人のフィルム・メーカーは世界中に散ったNRIの居住地域をマーケットに持つわけで、かなり有利な映画環境といえよう。
ヒングリッシュが作られるようになった背景はそれだけでなく(これはハリウッドまがいのパクリ映画も含まれるが)、インド映画圏に住む人々が根強く自分たちの文化を保有しているために、すぐさま聖林スターの出ている映画を観るよりは、やはり顔なじみのトップスターが主演する似たようなバージョンを観たがることも大きいだろう。ちょうどハリウッドが盛んに海外からリメイク権を買い漁り、アメリカの基準に仕立て直して再流通させていることの裏返しとも言えよう。
出演は、Mr.セフナー役に「Yun Hota Toh Kya Hota(もし起きたら何が起きるか)」(2006)で監督にも進出した名優ナスィールッディン・シャー。
その夫人ケティに、インド版「ロミオとジュリエット」の「ボビー」Bobby(1973)で鮮烈なデビューを果たしたディンプル・カパーディヤー。言わずと知れたトゥインクル・カンナーの母親で、1960〜70年代のスーパースター、ラージェーシュ・カンナーと離婚し、現在はシングルライフをエンジョイしている様子。ジュンパ・ラヒリの短編小説「神の恵みの家」にもあるように、彼女の妹シンプル・カパーディヤーは、女優から衣装デザイナーに転向し「Darr(恐怖)」(1993)や「23rd March 1931:Shaheed」(2002)などを手がける。
ちなみに本作の衣装デザイナー、アナイター・シュロフ・アダジャニアは「DDLJ」(1995)でカジョールの腰の軽い女友達シーマや「Kal Ho Naa Ho(明日が来なくても)」(2003)で腰の軽い子持ちのMBA受講生を演じている。衣装デザインとしては「Dhoom」(2004)、やはり出演も兼ねた「Everybody Says I’m Fine!」がある(フルネームからすると、おそらくは本作の監督ホーミーのパートナーだろうか?)。
話を本作に戻すと、放浪者役のサイーフは確かな芝居を見せ、「Parineeta」(2005)同様、精悍な表情が氣を引く。
だが、彼のファン以外への吸引力はというと、それはまた別の話。
梵林狂いにとって問題は、90分とはいえ、この非<ボリウッド>映画にそれだけの時間を割く余裕があるかどうか、だろう。
追記 2010,09,10
監督のホーミーは、その後、目立った活動はなし。
一方、衣装デザインのアナイター・シュロフは着実にキャリアを伸ばし、「Dhoom:2(騒乱2)」(2006)とサイーフ製作「Love Aaj Kal(ラヴ今昔)」(2009)でIIFAのベスト・コスチューム・デザインを受賞。シャー・ルク・カーンの新作「RA.One(ラーワン)」(2010)やインド版「Vogue」などを担当している。
ヒングリッシュ映画が取り沙汰されたのは、主にゼロ年代前半であり、本作が発表された2006年は遅咲きの部類に入る。
この年、「Khosla Ka Ghosla(コースラーの巣)」(2006)が公開され、それまでヒングリッシュ寄りにあったアート系中間映画がより娯楽性を伴い、マルチ・プレックスを中心に都市部のミドル・クラスを取り込み、「小粒映画」と呼べるカテゴリーへと発展。
無論、流行廃りがあって、小粒映画の市場拡大(つまりは、旧来のマサーラー的な作品を好み、それほどトンガった作品は好まない層の取り込み)に成功するにつれ、在外文化を意識した作品からインド文化を再確認するような傾向へとシフトしている。