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Yun Hota Toh Kya Hota(2006)#055

2010.09.11
オススメ度 =陳腐 ★★=退屈 ★★★=平均点 ★★★★=面白い! ★★★★★=お気に入り!!

Yun Hota Toh Kya HotaYun Hota Toh Kya Hota(もし起きたら、何が起きるか) ★★★ 06.09.11

ユン・ホタ・トゥ・キャ・ホタ

製作:シャッビール・ボックスワーラー/監督・ナレーター:ナスィールッディン・シャー/脚本:ウッタム・ガダ/撮影:ヘーマント・チャトゥルベディ/作詞:サミール/音楽:ヴィジュー・シャー/振付:ファラー・カーン、プリユーシュ・パンチャイ/アクション:アラン・アミン/美術:ラジーブ・マジュムダル/プロダクションデザイン:シッダール・シロヒー、ソーナーリー・スィン/VFX:パンカジ・カンドプル/編集:ヒナ・アールヤーダ

出演:パレーシュ・ラーワル、イルファン、ジミー・シェルギル、コンコナー・セーン・シャルマー、ラトナー・パタク・シャー、スハシーニー・ムーレイ、アンクル・カンナー、アイーシャー・タキアー、カラン・カンナー、トリシュラー・パテール、イマード・シャー、ラヴィ・バスワーニー、ティヌー・アーナンド、ウトカルシュ・マジュムダル、メグナー・マリック、カルラー・スィン、サロージ・カーン、サミール・シェイク、シャハナー・ゴースワーミー

ゲスト出演:ボーマン・イラーニー、ラジャト・カプール、ランヴィール・ショーレー、マクランド・デーシュパーンディー

公開日:2006年7月21日(日本未公開)

STORY
初夜の翌日にNRI夫(ジミー)がアメリカへ帰国してしまった若妻ティロッタマー(コンコナー)、新天地を求めアメリカに旅立つMBBSのラーホール(アンクル)、ダンサーを束ねる手配師ラージュー・バーイ(パレーシュ)、年増女との恋に破れたサリーム(イルファン)、それぞれの人生が交差する2001年晩夏のある日・・・。

Revie-U
無知というのは恐ろしくもあり、また怖いもの知らずでもある。

何も知らないが故に、映画に仕掛けられたリーラー<遊技>に感嘆することもある。

冒頭、初夜の余韻を堪能するヘーマントは、白人の母親を持つミックス。演じるはMohabbatein(愛)(2000)のジミー・シェルギル「Haasir」(2003)ではイルファン・カーンのヤクザに憧れる学生を好演していたが、その後はMunna
Bhai MBBS
(2003)の胃ガン青年のような脇に収まる。万年青年顔からこれからも若者役が続きそうだが、その実、わりと老け込んでいるのが氣になるところ。

しかし、ナスィールッディン・シャーのナレーションで紹介される主要人物は彼ではなく、妻となった<ティロッタマー・ダース・プンジュー>の方。扮するは「Page3」(2005)、「Omkara」(2006)のコンコナー・セーン・シャルマー。若い世代ながらサーリーを着込んで家事をこなす古風な役柄には、泥臭い顔立ち故に適役であろう。不美人ではありながら、キャメラを惹きつける求心力はじゅうぶんで、女優としての可能性が強く感じられる。

「Paheli」(2004)のように結婚式の翌日、ヘーマントはLAへ旅立ち、ひとり婚家に残されるティロッタマー。法律内妹(義妹)のカルパナーは睡眠薬を多用してたびたび発作を起こし、その都度、ヒステリックな法律内母(義母)とやり合い、ティロッタマーは生きた心地がしない日々を送ることになる。

次なるキャラクターは、MBBS(略してMS)コースに合格した<ラーホール(ラーフル)・ビデー>。ヒップな学友たちに囲まれながら、彼自身は廃屋同然の住宅に暮らし、寝たきり老人の父親の下の世話をしなければならない苦学生。

ラーホール役のアンクル・カンナーは地味な青年だが、女友達クシュブー役のアイーシャー・タキアーは実にゴージャス! クシュブーはショーファー付きのベンツを引き連れ遊び回るが、アイーシャー自身もボーマン・イラーニーティヌー・アナン(アーナンド)に並んで彼女のドライバーさえクレジットされているほど。

現在のボリウッド標準からすると、アイーシャーはかなりのダイナマイト・ボディで、それ故、平凡な若者たちの中で意味なく「浮いて」しまって見える??

この学生たちは会話の大部分が英語。ヘーマントもハーフという設定からか、ティロッタマーとの会話も英語であり、「若い世代がヒンディーをしゃべらなくなった」という反映か。

<ラージューバーイ・パテール>は、ダンサーを抱えるコーディネーター。しかし、それは表向きの商売で、タレント・ビザを所得させて海外に移住させる「送り屋」。

トップ・ビリングのパレーシュ・ラーワルは、19年前に嫁いだ恋人を今も想い続け、彼女が訪ねてくれば頬を赤らめ、なにかと世話を焼く中年の男寡婦をしっとりと演ずる。近年、コメディアンまがいの役柄が続いていたが、今回は奥深い演技で本領を発揮。

その彼が心ときめかせるのが、「星」という名に反してジュニア・アーティスト(エキストラ)のターラー。アル中夫のため手配事務所からも仕事が途絶え、客をとらねばならぬ環境に娘パヤルの将来を危惧し、昔の男を頼ったのだった。

このラトナー・パタク・シャーは、ナスィールッディンの実夫人で「Paheli」でも夫婦そろってラージャスターンの操り人形に宿った亡霊の父母役として声の出演をしていたし、「The Perfect MurderTV放映題:ボンベイ大捜査線)(1987=米)でも共演。本作では、寺院にたたずむ乞食役エキストラのため片目に白のカラーレンズをはめるなどの演出も厭わない(このシーンはKKHHはじめ毎度お馴染み、フィルムシティ内にある例の寺院で撮影)。

最後に登場する<サリーム・ラージャバリー>は、ヤクザなブローカー。ひょいと体を持ち上げてフレーム・インしたかと思うと、鼻をムズムズさせる。おまけにポケットナイフの刃を指先でなぞって舐めるなどリアル。それでいて、センチメンタルなところをGhaath(殺人)(2000)のイルファンが情感たっぷりに演じるのだから見応えあり(今回はファーストネームだけのクレジット)。

このサリームが惚れて、アメリカ移住を誘うのがダンサーのナムラター。といっても、かなり年上の過熟女。なんと扮するは、Lagaan」ラガーン(2001)でアーミル・カーンの母親役だったスハーシニー・ムーレイ! 赤と黒の衣装に身を包み若い男たちに担がれて踊るばかりか、ダンサー仲間を部屋に招き入れるなど、お熱い役柄。イルファンとのキス・シーンはおろか、半裸(!)の濃厚ベッド・シーンまで果敢に見せる女優ぶりには脱帽だ。

このようなキャラクターたちが、ロバート・アルトマン流の群像劇としてカットバックで綴られてゆくのだが、どれも日常の断片という描き方なのでわりと退屈氣味。
ヘーマントがアメリカへ飛び立つ際、置き忘れた彼のパスポートを意味あり氣に示すものの、すぐにティロッタマーがタクシーで届けてしまい、それっきりだったりする。

映画がドラマとしてようやく転がり出すのは、登場人物たちが<交差>し始める後半から。

この場所が、なんとアメリカ大使館。それぞれがヴィザ申請に立ち寄るわけで、ティロッタマーは狂気の婚家から逃げ出しLAにいる夫のもとに行くため、ラージューはターラーの娘パヤルをLAの伯父に送り届けるため、そしてラーホールは父の他界を機にUCLA留学を果たす渡すというわけだ。

本作は、どのボリウッド映画より「アメリカ」という台詞が多く飛び出す。

ムンバイー下町の路上に座り込んで朝の用を足す子供の姿が映し出されれば、それに対してラーホールの友人でアメリカかぶれのニティンが「見ろ、これが世界の楽園ムンバイー・シティだ!」と嘲り、クシュブーが「NYみたい」と返す……この後、アメリカ映画の若者のようにジープで暴走し一方通行を逆走する始末。

ラージューのスタジオ兼自宅には「I love NY」(!)のデカールさえ貼られてあり、登場人物たちはインドでの生活苦がアメリカへ渡りさえすればすべて解決するかのようにアメリカ行きを求める。

作品の中だけでなく、パブリシティ・デザインにはもちろん、パレーシュが自らプレイバックするプロモーション・ナンバル「ek baar jaana america」ではスターズ・アンド・ストライプスが全面に用いられ、アメリカが常に強調されているのだ。

かつての「アメリカ嫌い」のインドはどこへやら、ITバブル以降、これほどまでにアメリカへ傾倒し、インドはアメリカに成りたがっているということか。

ところで、サリームはと言うと、年増のナムラターに袖にされ、アンダーワールドからの借金で下手を打ったDCP殺害現場に居合わせた呷りを喰って、ひと足先にNYへ逃亡しており、実はここにひとつの伏線が仕掛けられているのだった。

*この後、結末に触れてゆきます。

同じ旅客機に乗り込んだ登場人物たちは、トランジェットのためにボストンの空港で一夜を明かす。

その他の登場人物を待ち受ける形になる失意のサリームが見上げる高層ビルの彼方に旅客機が白く飛び去り、なにやら不吉な暗示となる。

やがて、搭乗時間となるが、夫に会うためにしおらしくもトイレでサーリーに着替えていたティロッタマーは、ラージューら他の登場人物たちに遅れた上、ボーディング・パスを失くして旅客機に乗り遅れてしまう……。

一方NYでは、並び立つ高層ビルの95階に訪ねたオフィスでサリームがナムラターとの情事やDCP殺害現場を目撃した<悪夢>のフラッシュバックが走りテーブルに崩れ落ちていた。

背後には日めくりカレンダーがあり、ちょうどシネマスコープ画面の最も目が行く場所に置かれていて否応無しに目に留まる。その日付が「sep.10」とあって、ほっとした頃、コーヒーを運んで来たアメリカ人の秘書が帰り際、ぺろっとカレンダーをめくり「11」の文字が示されるのだ!

本作の監督は、ナスィールッディン・シャーその人。

「ヒンディー・マサーラーは見ない」というだけあって、先鋭的な演出を狙い、イルファンはじめ各俳優たちがしのぎを削るのも無理はない(とち狂ってアメリカ移住を誘うサリームに年増のナムラターが「これはヒンディー・ピクチャーきゃ?」と言う台詞あり)。

その脚本であるが、意外にもKhiladi 420(偽闘士)(2000)の台詞を担当したウッタム・ガダが起用されている。

ボリウッド定番となったナレーションと画像処理による冒頭のキャラクター紹介はやや食傷氣味であるが、商用から戻ったラージューがデリー土産に想いを寄せるターラーへと手渡すのがタージ・マハルの置物というのも意味深であるし、また、サリームと組んで仕事をしている弟の名がジャーヴェードとなっていて、DCPを訪ねた時に「サリーム-ジャヴェード」と告げたりする。

これはもちろん、Sholay(1975)で知られる名脚本家で、サルマーン・カーンの父サリーム・カーンと、現在は作詞の大家となっているジャーヴェード・アクタルのコンビ名であるお遊び。このふたりは後に決裂しており、これもこの兄弟が死別する暗示?

余談だが、サリーム役のイルファンは殺し屋を演じたThe Killer(2006)で、誰何されるや「オサマ・ビン・ラーデン」と名乗っている。

ナスィールッディンの演出は、流石に名優だけあって感情の高め方が巧い。

撮影前に主要キャストを集め、脚本の読み合わせからスタートするなど、監督第一作だけに力の入れようが伝わってくる。自身の初監督作「Om Jai Jagadish」(2002)のために出演本数を減らしたアヌパム・ケールとは違って、出ずっぱりのまま本作を乗り切ったようだ。

演出面での挑戦は、やはり熟年の性愛を描いていることだろう。

パスポート作成の賄賂など娘の渡航資金を捻出するために自宅を抵当に入れ、DV夫からも逃れる決意をしたターラーと19年前の淡い想い出を今も忘れずにいるラージューバーイーが伴にする一夜。ここでは彼女のギプスが外され、凝り固まったその左腕をラージューが丹念にマッサージすることで、積年の離別が取り戻されてゆく様を表している(ラージューのオフィスとスタジオの境にあるカラフルな格子には剥がれかかったクリシュナ神のシールが貼られてあり、愛から見放されていたラージューの心情を補足。この晩、彼女をエスコートする際にも暗にフレーム内に収められている)。

ただ、これにクナール・ガンジャワーラーのヴォーカルがねっとりとしたムード歌謡調タイトルソングが重なると叙情過多で、何かのパロディに思えないこともない。これがサリームと過熟女ナムラターの濃密なベッド・シーンともなると、人生はある意味でグロテスクであることが思い出されるほどだ。

反面、ラーホールとクシュブーの関係はあっさりとした友情止まりで、物足りなく思える。

消化不足と言えば、クライマックスもそうだろう。旅客機がWTCに衝突するシークエンスなどはデジタル処理に負い過ぎていて、ハイジャック部分からの緊迫感が薄れてしまっている。

大いに氣になるところでは、アイーシャーの登場シーン。

彼女は室内射撃場で競技用ハンドガンに熱中しているのだが、黒ずくめのジャケットにパンツというボーイッシュな出で立ち。一見、ポリス・ウーマンかと思わせ、射撃はただの趣味で伏線にもなっておらず、ジャケットの片側にU.S.NAVYのワッペンがあるのはまだしも、その反対側はハーケンクロイツに留まる鷲のワッペンが縫い付けられているのだ (先日、ムンバイーにチェーン展開を目論んだ「ヒットラーズ・クロス」なるレストランがオープンし物議を醸したが、概ねインド人のナチス評価は甘い?)。

苦学生であるラーホールをムンバイーの底辺からすくい上げ、留学の資金まで与えて送り出しながら、結局は黄泉の旅につかせたことにもなるクシュブーは、幸福をもたらす女神ラクシュミーが方や不幸をもたらす(幸福に預かれない者をうみだす)ためにチャンチャラー(氣まぐれ)の別名を持つように、彼女も片手に世界の警察、片手に虐殺を持つ「自由の女神」であると言うと穿って見過ぎだろうか?

そう言えば、「アメリカ」を(揶揄にしろ)あれだけ讚えながら、自由の女神像は映し出されていない。靴先までこだわって衣装合わせさせていたナスィールッディンであるだけに、一度聞いてみたいところだ。

それと、なぜオープニング・タイトルバックのイントロが「スカイハイ」(ジグソー)のイタダキなのか? (って、やっぱりスカイハイだから??)

さて、ティロッタマーは、太陽の守護天使であるその名の通り、不運を乗り切る(というか、乗り遅れることで一命をとりとめる)。冒頭のナレーションがスーリヤ=太陽について触れられていることからも、神々の建築士ヴィシュマカルマンたるナスィールッディンとウッタムが登場人物として祝福を授けた名前であったことが知れよう。

で、彼女が失くしたボーディング・パスであるが、サーリーに着替えようとトイレに入った時、床に捨てられてあったチューイングガムでバッグに貼り付いていたのだった。であるから、大きなバッグにボーディングパスが貼り付いたまま、サーリー姿で近代的な空港内をうろうろする彼女の姿はまるでマンガのようであり、WTCのエピソードさえなければ、珍妙な群像劇として終わるのもありだったと思える。

実際のところ、あの911でさえ「ハリウッド映画まがいの」出来事であった。

死ぬはずのところを生き延びた登場人物は、もうひとり。それは自分から待ち合わせの時間を指定しておきながら遅れて出かけた、サリームの弟ジャヴェードがそうだ。

これは、この夏、ティベット仏教の僧から聞いた話であるが、彼は911が起きた時、モンゴルに滞在していた。後にインド大使が訪ねてきて、WTCへ毎朝同じ時間に勤めていた親族がその朝に限って娘がぐずって出勤が遅れ、事無きを得た話を告げたという。かと思えば、人生で初めてWTCを訪れ、生命を落とした人もいる。

ティベット仏教の僧である彼は、このことを前世からの因縁、宿業の説明で用いていたが、ヒンドゥーを中心とするインドでも、当然、カルマによるものと観るだろう。

アメリカを賛美し、彼に留学を促した友人ニティンをラーホールがボストンに訪ねてみれば、うらぶれたゴー・ゴー・バーでバイトする身。

全編に「アメリカ」という台詞を鏤めたこの映画は、やはり、アメリカナイズする現代インドへの警鐘なのだろう。4組の創作人物の中で生き延びたティロッタマーをジーンズから着替えさせ、夫のもとに現れるのもサーリー姿であるから。

ただ、それにしては911という世界に衝撃を与えた事件を絡める必要があったのかどうか、そのへんが判然としないのが本作の弱みか。

*  * *

サポーティングに、ラージューの世話役ディッルーにKarobaar(2000)のティヌー・アナン。今回は嫌みな役ではなく、あっさりとした出演。

ヘーマントの妹に、Chalte Chalte(行って、行って)(2003)でシャー・ルク・カーンラーニー・ムカルジーが再会する結婚式の花嫁ファラー役だったメグナー・マリック

物静かな父親は顎髭メイクのために判りにくいが、Lucky(2005)でスネハー・ウッラールの父親を演じたラヴィ・バスワーニー。二作の演じ分けは完璧! ティロッタマーが旅立つ間際、「Shaadi Harke Phas Gaya Yaar」(2006)のシャクティ・カプール同様に喚き出す妻を一喝する。

ターラーの娘にして、おそらくはラージューの落とし種と思われるパヤル役、シャハナー・ゴースワーミーもよい。降って湧いたようなアメリカ行きの話に目を輝かせ、ラージューに連れられてヴィザ申請に行けば、アメリカ大使館の壁の向こうがエアポートだと思っていたあたりも純真さがよく表されている。

面接の席で、ラージューたちがダンス巡業を強調するために踊り歌ってみせる中、急遽ツアー・メンバーに組み込まれた彼女は黙って座っているしかない。そこを大使館員に指摘されると、パヤルはそっとインドの歌を唄ってみせるのだ。

その大使館オフィサー役が、監督作も多いラジャト・カプール。もっとも、プリットヴィーラージ・カプールから連なるボリウッド名門のカプール一族ではない。Dil Chahta Hai(心が望んでる)(2001)では小さな役であったが、「Kisna」(2005)では逃亡するヴィヴェーク・オベローイたちを執拗に追う領主の息子という大役をこなした。本作は再び短い出演だが、ヒンディーを話せるのを知ってラージューバーイーが驚くほどの「アメリカ人役」。

ヘーマントの母親役カルラー・スィンは、インド名を持つ外国人。そのヒステリックぶりは強烈で、娘が発作を起こした際、夫が「大丈夫だ、何も起きない」と呟くや「ワイ・ユー・ミーン・クチュ・ニ・ホガ!」と噛みつく!!

ボストン空港で困惑するティロッタマーにヒンディーで話しかける白人(に見える)ビジネスマンやトイレにいる母子も実はインド系(アメリカのロケーション・マネージャーであるエリザベス・シャーとその娘)。クレジットには<シャー>の名がそこかしこにあって、ナスィールッディーンのファミリーがこぞってサポートした様子が伺われる。

家族と言えば、ラーホールの友人ジョイ役のイマード(イマムッディーン)・シャーはナスィールッディーンとラトナの息子で本作がデビュー。道理でカールのきついパームだったわけだ!? 今回は出番は多いものの、重きをなす役柄ではなかったので役者として伸びるかどうかは未知数。本人次第というところか。

また、ゲスト出演が、ホテルに閉じ籠もり、アンダーワールドからの暗殺を恐れるDCP(署長補佐)ポール役に「Bluffmaster!」(2005)のボーマン・イラーニー

ラーホールの亡父を火葬する寺守りは、Jungle(2000)のマクランド・デーシュパーンディー「Swades(祖国)(2004)のトライバルに続く、あまりにも見た目そのままの配役である。

端役では大使館で働くミセス・パテール役のラター・シャルマーが印象に残る。職務中、ヴィザ申請に来たソープオペラ俳優と並んで写真を撮りたがるのだが、その浮かれぶりがお見事。

これらのサポーティング・アクターやメイン・キャラクターをも圧倒する存在感を見せるのが、サリームと弟ジャーヴェードの母にしてイスラーム女聖者<アンマー>役のサロージ・カーン! ソファに座って訪問者の話を静かに聞いているだけなのだが、「チョップ(おだまり)!」と一喝する氣迫は凄まじく、振付をしくじって、この調子でなじられたスターも多かったことだろう。

ちなみにサロージは今回は「役者」としてだけの参加で、振付にはファラー・カーンプリユーシュ・パンチャイの名が連ねられており、ナムラターが若い男たちと稽古するシーンはファラーが担当している模様。

ロケーションは、ボストン空港シーンをNYのJFKで行おうとしたが許可が下りずニューアークで、サリームがWTCを訪れるシーンでは場所を示すためにグランド・ゼロ前の地下鉄出口で行っている。旅客機内の撮影はコルカタにあるエア・インディアのモックアップを使用。

サリームが見上げるWTCと、旅客機の衝突シーンはTATA ELXSIによるCGI。しかし、事件を伝えるニュース映像はすべて本物で、その衝撃は今も薄れていない(クシュブーたちがこれを知るシーンで、映像に茫然となるジョイ役のイマードがチェ・ゲバラのTシャツを着ており、彼もまた言葉を失っているかのように見える)。

インド系俳優が出てこないオリバー・ストーンの新作「ワールド・トレード・センター」(2006=米)とはまったく異なる仕上がりであるが、911をテーマに扱っていることと、国際的な名優ナスィールッディンの初監督作ということもあって、各国で注目されることであろう。

911の直接的犠牲者とそれに伴って行われた空爆による犠牲者の冥福を祈ります。

追記 2010,09,11-21:45

>ナスィールッディン・シャー
監督への欲求は本作で満足したのか、その後は俳優業に戻り精力的に活動している。

息子のイマードは、その後もぽつぽつと出演を続けている。アンニュイな学生ドンファンを演じた、シュリヤス・タルパデー共演「Dil Dost Etc(心、友人、etc…)」(2007)はまずまず。

>ラジャト・カプール
注目されるきっかけとなった監督作「Raghu Romeo」(2003)は、ナスィールッディンがプロデュース。
近年は、俳優業での伸びを見せて、現代ボリウッドを代表する映画人へと成長。

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