G.air(1999)#042
G.air(除け者) 01.05.28 UP/02.09.22 Re ★★★★
ガォル
製作総指揮:チャンダン・サプカーリ/製作:ハリーシュ・サプカーレー、プラカーシュ・パテール/監督:アショーク・ガーイクワード/ストーリー・脚本:ラジーウ・カォール、プラーフル・パレーク/台詞:サントーシュ・サロージ/撮影:アンワル・シラージ/詞:サミール/音楽:アナン(アーナンド)-ミリンド/背景音楽:プラケーシュ・ヴェルマー/振付:チンニー・プラカーシュ、パップー・カンナー/アクション:ヴィール・デーヴガン/美術:R・ヴェルマン/編集:ワーマン・ボースレー、グルダット・シラリ
出演:アジャイ・デーヴガン、ラヴィーナー・タンダン、アムリーシュ・プリー、リーナー・ローイ、アジンキャー・デーヴ、キラン・クマール、パレーシュ・ラーワル、スルバー・デーシュパーンデー、サティヤン・カップー、グッディー・マールティー
STORY
シヴァ寺院に捨てられていた孤児ヴィジャイ・クマール(アジャイ)は、後見人である実業家C・K・オベローイ(アムリーシュ)の誇りとして育った。親友の判事アマルナート(サティヤン)の娘マドゥー(ラヴィーナー)もヴィジャイに夢中となる。しかし、米国よりオベローイの息子ラージャー(アジンキャー)が帰国。マドゥーを見初めたばかりか、何かにつけて持て囃されるヴィジャイに憎悪を抱き始め・・・。
Revie-U
公開年月日は1999年秋であるが、ひと足先に公開されたアジャイ・デーヴガンの「Dil Kya Kare(心迷って)」(1999)と比べると作風は古臭く、ラヴィーナー・タンダンも「Shool(槍)」(1999)で見せた演技派以前の可愛さが売り物のお転婆娘。
インドではしばしば数年越しの製作があるが、本作も諸々の事情から撮影から公開まで7年かかったという労作と言われる。が、敵役のパレーシュ・ラーワルが「DDLJ」(1995)のフィルミーソングを口ずさんでいたり、アムリーシュ・プリーが「心温まる父親」を演じていることからも1995年以降の撮影と思われる。
オープニング・クレディット明け、掴みのアクション。
盲人を車で撥ねてからかうゴロツキ共を回し蹴り連発で倒しては、謝らせるスポーツウエア姿の男。「これからヴィジャイ・クマールの会社に面接に行く」と言う盲人に、男は「神はちゃんと見守っていてくれる」と励ます。
その濃い顔の男こそ、アジャイ扮するヴィジャイ・クマール。プロローグでオベローイに後見を約束された捨て子が、事業を引き継ぐ若きエグゼクティヴに成長していたわけだ。
オベローイ役のアムリーシュは、「laika laila mein naye zamane ki」のナンバルで、深く濁ったダミ声のハミングと鮮やかなドラミング・パフォーマンスを披露。黒革のテンガロンハットにイエローのスーツもイカしていて、さすがアムリーシュ「<モギャンボー>プリー!
このオベローイには、アメリカに遊学していた実の息子ラージャーがいる。しかし、それ以上にヴィジャイへの信認が篤く、ラージャーにしてみれば据膳を食わされているようなもので、次第にヴィジャイへの憎しみが湧いてゆく。
ラージャー役のアジンキャー・デーウはマイナー俳優で、この手の敵役には適しているが、然りとてあまりパッとするものでもない。その後、TVへ流れたようだ。
さて、真の敵役となるのがラージャーに肩入れするジャガート・ママジー(母方の叔父)、つまりオベローイの妻シャルダーの兄だか弟。扮するは、「Aankhen(盲点)」(2002)の名バイプレーヤー、パレーシュ・ラーワル。
登場シーンの会議でヴィジャイに掴み掛かってオベローイに突き飛ばされるのだが、この叔父、オベローイの屋敷に住んでいて、その後も平然と朝食の席に付いたりするのだから毒蛇を飼ってるようなもの。なにしろ、事業乗っ取りのために、果ては姉を「拉致」してしまうのだ。
ヒロイン、マドゥーを演じるラヴィーナーはどうかと言うと(何故か一部アテレコ。それもトゥインクル声!)、帰国早々鼻の下を伸ばしたラジャからアタックされる。しかし、マドゥーはヴィジャイと知り合い、当然ながら恋に落ちる。この経緯が面白い。
彼女がラージャーの車で送られていると、途中で煙を吐いて車が止まってしまう。マドゥーは路肩で車の下に潜っている濃い顔の男(つまり、その男の車も故障している。インド映画には実に車の故障シーンが多い)に助けを求める。男がラージャーの車をチェックしてみると、単にハンドブレーキを引きながら走っていただけ、というオチ(ラージャーはアメリカでタクシーばかり使っていたのだろう)。マドゥーが礼を言おうとするが、男は名も告げずに立ち去る。
マドゥーには新聞社に勤める太り過ぎの親友アニターがある。「ヴィジャイ・クマール」(実は行儀の悪い部下)へインタビューをしに行って屈辱を味わったという彼女に代わってマドゥーが勇んで出かけに行くと、彼の会社で例の濃い顔の男に出くわす。高飛車なマドゥーはここで散々タンカを切って、おまけに男のスーツで鼻をかんで退散するという行儀の悪さ!
ところが、ダンス・コンテストで優勝したトロフィーのプレゼンターがヴィジャイ・クマール。ここで、初めてヴィジャイが濃い顔の男とわかるのだ。
このダンス・コンテストも単にホールの黒幕に「全インド若者コンテスト」と銀紙の吊り看板だけという美術だったり、嵐の晩、ヴィジャイを問い詰めるラージャーの母シャーリダーが、稲光に照らされたヴィジャイの顔を見るや、なんと20数年前、バイクで事故死した恋人デーヴ(口髭を付けたアジャイの二役!!)の落とし種で泣く泣く寺院に捨てた我が子と知る・・・・など、本作はいかにも古臭いテイストだ。
特に、稲光を受けて素のアジャイと口髭を付けたアジャイがいきなりカットバックし始め、何が起きたのか一瞬理解を超えてしまう。
しかし、先のヴィジャイとマドゥーの馴れ初めを見てもわかるように、全体としてはなかなかよく出来ている。アショーク・ガーイクワードの演出力も悪くなく、例えばマドゥーとの結婚が破談になるシーンでも、贈り物を並べ悦に浸るヴィジャイと養母カォーシャルヤーがぶつかり、手にしていたミルクが零れる。不吉な予感を示されるや、電話が鳴る。果たして、マドゥーの父アマルナートから婚約破棄の知らせなのだが、電話へ向かうカォーシャルヤーが床に零れたミルクを踏み歩くなどの演出があって、強い印象を与える。
ワーマン・ボースレー&グルダット・シラリの編集も良好で、先のダンス・コンテストでステージに上がった審査委員長のオベローイがトロフィー・プレゼンターを紹介するに及び、今か今かと気を揉むラージャーをよそにヴィジャイの名が呼ばれるシーンなどラージャーの焦燥感をよく表している。
これらのディティールに加え、ラージャーよりヴィジャイを寵愛するオベローイに不信を抱き、敵対していたヴィジャイが実は我が子と知ったシャーリダーの苦悩、そして今までヴィジャイ一辺倒だったオベローイが妻の不貞を知るに到っての対立と和解、ラージャーやジャガートたちに拉致された「母」の叫びを感知し、重態の病床から抜け出してバイクで突っ走るヴィジャイ・・・とマサーラーの王道をゆく力技でぐいぐい見せ切ってゆく。
アクション・シーンも、ヴィジャイを轢き殺そうとするラージャーの車に突如オベローイの車が突っ込み吹っ飛んだり、クライマックスでラージャーたちのアジトへ向かったヴィジャイがバイクごとレンガの壁に突っ込み、スタント・ライダーが空を舞って更にレンガをぶち破るなど、粗削りのエモーションに唸らせられる。
大作主義、洋画テイストへ向かいつつある1999年のボリウッドにおいては、いかにも古臭い見えるものの、撮影時の1995年前後、ないし1980年代後半〜1990年代前半のカテゴリーとして見れば満足できる出来。
ただし、父親に反発し悪行を働いたラージャーを拳銃で撃とうとすると、それを止めに入ったヴィジャイに当たり、銃弾を受け血を流してるはずのヴィジャイにオベローイはじめシャーリダー、マドゥーが寄り集まり、居た堪れずに立ち去ろうとするラージャーをヴィジャイが呼び止めるや「ごめんね、兄さん」、「いいんだ、兄弟じゃないか」とふたりがひしと抱き合い、めでたしめでたしで終わってしまう! このへんは、やっぱりマサーラー・・・。
サポーティングには、オベローイの妻シャーリダー役に「Refugee(難民)」(2000)のリーナー・ローイ。20年前、最愛の恋人と逢瀬中の回想シーンがあるが、その頃のリーナーはヒロイン女優だったわけで、往年の彼女を知る観客にとってはちょっとしたサービス??
寺院に捨てられたヴィジャイの養母となるカォーシャルヤー役が、「Mann(想い)」(1999)でマニーシャー・コイララの母親役を演じていたスルバー・デーシュパーンデー(洗剤CMでもお馴染み)。一村人だったが、オベローイがヴィジャイに目をかけるため、彼女の住まいも豪勢なものとなっている。
また、ラージャーとジャガートが雇うならず者が、キラン・クマール。「Tezaab(劇薬)」(1989)のスラム・ロードを思わせるの印象だが、これがからきし役に立たない、というのが可笑しい。
その他、マドゥーの太り過ぎの親友アニター役に超弩級のコメディエンヌ、グッディー・マールティー。
ラージャーや叔父たちに丸め込まれ、掌を返すように縁談を破棄するマドゥーの父アマルナート役に、お茶の水博士をホーフツとさせるサティヤン・カップー。
クライマックスに登場するヨコヅナは、アクション監督にしてアジャイの父親ヴィール・デーヴガンに氣に入られたのか、「Kachche Dhaage(不完全な鎖)」(1999)の太り過ぎ警官役に起用され、「Hindustan Ki Kasam(インドの誓い)」(2000)ではアジャイの相棒に昇格。
旧題「Shaktishali」でカセットの先行販売までされていたアナン(アーナンド)-ミリンドの音楽は、撮影が古いだけに今風ではない。が、クマール・サーヌーの漂うような美声が心地よい「meredil ne chupke se」のメロディーなど耳に覚えもよく、どこかノスタルジックを感じさせる。ちなみに、ミュージカル・シーンは南インドの高級避暑地ウーティー・ロケ。
プロローグとエピローグに登場するヒンドゥー寺院は、一見、清々しい山間の山村にありそうに見えるが、「KKHH」(1998)などでもお馴染み、フィルムシティにあるオープン・セットを使用している。
*追記 2010,09,05
近年のボリウッドではあまり見られなくなった捨て子物映画。とは言え、神の計らいにより縁者の元で育てられ、やがてその血筋が明かされる、というのが定式。
「近年、見られなくなった」と言っても絶滅したわけではなく、同じアジャイを配役した「Raajneeti(政祭)」(2010)でも踏襲されている。この捨て子定式自体、クリシュナ神話に準じており、「マハーバーラタ」を地方政界に置き換えたコンセプトだけに、この定式を復活させたわけだ。
母親役リーナー・ローイは1957年生まれで、15歳の時、「Zaroorat」(1972)でデビュー。米「エクソシスト」に端を受けたホラー「Jadu Tona(黒魔術)」(1977)では事件を解決する心理学者の相手役(悪霊に憑依されるわけではない)。ヒロイン女優としては70年代末~80年代前半が旬であったと言えよう。
尚、タイトル「G.air」(アラビア語源。別の~)のGに付いている「.」は、ヒンディーで外来語を表すためデーヴァナーガリーで用いられるヌクター記号をローマナイズにも流用したもの。発音的には有声摩擦音になるが、実際にはあまりこだわらずに発音されていたりする。
故アムリーシュ・プリー( 2005年没)で触れている「モギャンボー」は、アニル・カプール主演「Mr.India」Mr.インディア(1987)で世界ならぬインド征服(!)を企む悪の首領モガンボに因んで。
アムリーシュも敵役で出演している「Karan Arjun」カランとアルジュン(1995 )でもシャー・ルク・カーンの愛馬がモガンボと名付けられていた。
アムリーシュ・プーリーの「Puri」はデーヴァナーガリー上では「プリー」となるが、「Teree Sang(君の同伴者)」(2009)でもアヌパム・ケールが「プーリー」と発音しているなど、しばしば「プ」にアクセントが置かれるあまり「プーリー」となる。
それにしても、髭のないアジャイと髭のあるアジャイのカットバック、何度見ても唖然とさせられる。まったく同じ顔なのに、それまで氣づかないとは…。 それでいて、観る者を惹きつけてやまない力業がこの時代の魅力と言えよう。