Zinda(2006)#030
Zinda(生存)/2006 ★★★ 06.09.22
ズィンダー
製作:サンジャイ・ダット、ニティン・マンモーハン/製作代表:ゲイリー・ヴァン・シプレー/製作・脚本・監督:サンジャイ・グプタ/脚本:スレーシュ・ナーイル/台詞:カムレーシュ・パーンディー/撮影:サンジャイ・F・グプタ/詞:サンジャイ・グプタ、アンワール・マクソード、ヴィシャール・ダドラニー
/音楽:ヴィシャール-シェーカル、ストリングス、シバニー・カシャップ/美術:ショーナリー・ガイクワード、ヌット・チムプラセルト、メグナ・ガンディー/音響:レスール・ポークッティー/背景音楽:サンジョイ・チョウドリー/VFX:プライム・フォーカス/殺陣:ティヌー・ヴェルマー/編集:バンティ・ナギ
出演:サンジャイ・ダット、ジョン・エイブラハム、ラーラー・ダッタ、セリーナー・ジャイトリー、マヘーシュ・マンジレーカル、ラージ・ズトシー、アリーシャー・ベイグ、ニティン・ラーガニー、アディティヤ・シッドゥー、ルシター・スィン、ヴィッキー・アローラー、ラフール・ドーサニー、チラグ・グラーヴ、シュローク・チャトゥルヴェディ
公開日:2006年1月12日(日本未公開)
STORY
タイを訪ねたバーラー(サンジャイ)は、何者かに監禁される。14年後、不意に解放されたバーラーは、自分を監禁し、妻を殺害した者を探し出し復讐することを誓う・・・。
Revie-U *結末には触れていません。
「オールド・ボーイ」(2003=韓国)そのままの本作。復讐され壊れてゆく中年男にサンジャイ・ダット、復讐する優男にジョン・エイブラハムという配役からして期待しない方が無理! しかし、監督は「Jung(闘い)」(1999)のサンジャイ・グプタというのが一抹の懸念であった……。
冒頭、サンジューとマヘーシュ・マンジレーカルの酔った芝居からして興醒め。衝撃的な「OB」オープニングの映像設計など微塵もない。これはパクリを悟られないための方便か??
しかし、監禁シーンに移るや、まさしく「OB」そのもの。もっとも、そこはサンジャイ・グプタ。異空間=主人公の心理表現として腐心したオリジナルの鋭い作家性がすっぽりと抜け落ちているところがミソ(苦笑)。
「OB」の監督、朴賛郁(パク・チャヌク)は、15年間監禁された主人公が唯一外界とのつながりとなるテレビ映像に韓国の政治的変化を盛り込み、物語のいびつさに奥行きを加えることに成功していた。
また、この惨く静かな長い仕打ちには、韓国のDNAである<恨(ハン)>の哀愁が込められている。淡泊なまでに緻密な復讐劇は、どうもねっとりと濃く熱いインド人のメンタリティーにそぐわないような氣がしてならない。
また、サンジャイ・グプタが意図的に避けて通った要素に、監禁中の<自慰シーン>と<丼話>があげられる。特に後者は、オリジナルではテーマの核心であり、儒教という呪縛社会への挑戦ともとれた。ところが、これがヒンドゥー的フィルターから排除され、単に嫌がらせを受けた姉の焼身自殺が怨恨の理由に置き換えられてしまって、本作の決定的な弱さになっている。これもサティーを通して清浄と不浄からなるヒンドゥー的呪縛を見据えることが出来たにも関わらず、そうはならなかった。
本作ではサンジャイの謙遜からか、監禁される年数が14年と若干低く見積もられている。これがセンサーボード(映画の冒頭に必ず出てくる許可証)にある2005年からリアルに14年差し引くと、インドが社会主義政策から新経済路線へ移行した1991年へ見事に当てはまる。高度経済成長によるインドの急激な変化を<監禁→唐突の解放>というメタファーに託すことが出来、通り掛かりの少女を愚弄するウエスタナイズされたチンピラとの遭遇が俄然生き、「私はガンディーを殺していない」Maine Gandhi Ko Nahin Mara(2005)に逼迫する優れたテーマとなり得たのだが、舞台を安直にタイへ移してしまったためにすべては水泡に帰してしまった他(苦笑)、<丼話>を外してしまったために監禁した年数の意味合いが薄れてしまっている。
1990年代まで、たいていの韓国映画には分断された南北のアンビバレントが見てとれた。こうしてみると「OB」は日本のマンガを原作としながら見事に韓国的テーマを昇華させた、まごうなき傑作であった。
本作はサンジュー自らプロデュースしているのだが、一体「OB」のどこにリメイクするまでの魅力を感じたのかは謎のまま。崔岷植(チェ・ミンシク)の壊れザマは、見るからに単なる中年オヤヂという役作りがあってこそ復讐にひた走る壊れた中年性が生きてくる。しかし、サンジャイから野獣の素性を引き剥がすことは難しく、それゆえキャラクターとしての<弱さ>が露呈してしまう。
格闘シーンにしても、ロング・テイクの格闘を真横の水平移動から撮ることでどこか舞台的な様式と、中年俳優のチェ・ミンシクが全身全霊を込めたフルコンタクトとのギャップが復讐の異様な情念を炙り出していたが、本作ではそれが欠けている。
絡みの不良少年たちもただの素人のようで、世界最強の格闘映画を作る牙城バンコックなのだから、ここはひとつ「トム・ヤム・クン!」(2005=タイ)で知られるトニー・ジャーの門下生を大量動員してもらいたかった。
ところで、「OB」にしても倒された不良少年たちの痛がりようが芝居がかって鼻についたものだが、なぜかそれもそっくりコピーされている! これってリスペクト??
復讐者役のジョンは、まずまず。
だが、その優雅さだけが先行してしまい、オリジナルの劉智泰(ユ・ジテ)にあった孤独感が表現されず、すなわち「同胞への報われない愛とその喪失感」が浮き上がって来ないのが残念。
やや収穫であったのは、ヒロインとなるラーラー・ダッタだろう。
ミス・ユニバース2000だけあって、Zee Cine Awards 2005のホステスとして登場した彼女はやたらゴージャスで、「Khakee(制服)」(2004)のゲストダンサーにしてもボリウッド一身体が硬そうに見えてならず、ヒロインとしての女優業を多いに心配していた。
ところが、異郷の地で働くタクシーワーリー役はさほど違和感なく、意外に表情もよい。ただ、小走りするにしても、やはり身体の硬さは伺われるのが難点。是非、ヨーガを日課にしてほしいところである。
(日本人の懐古趣味からすると、タクシーでなくトゥクトゥクにして欲しかったが)
また彼女絡みで言えば、サンジューとの大胆な濡れ場にカットバックされるジョンの痛みに耐える姿は、本作中、最も目を見晴らされた演出。これは、リングの上でキックボクサーたちの回し蹴りをひたすら受けるというもなのだが、ジョンの鍛えられた肉体を見せるサービスとしても上々(<恨>などどこ吹く風とばかり、最後にボクサーたちを倒してしまうのがインド的!)。
ここで興味深く思ったのが、オリジナルの「OB」では劉智泰が独りヨーガのエビぞりのポーズをとることで復讐の自虐的な感傷を表していたのに対し、インド映画がタイ・ロケをしてムエタイを使っていること。
もっとも、この中途半端な歩み寄りが本作のウイークポイントでもあり、終盤の日本刀持ち出しなどは、東アジアを混雑視した「キル・ビル」(2003=米)ごっこにしか見えない。
そして、詰めの甘いエンディングは、サンジャイ・グプタならでは。が、そこには触れずにおこう。
と、まあ、これはカンヌでグランプリを受賞した「OB」と見比べての話。初見の人なら、楽しめる展開であろう。もっとも、それはリメイク版「ソラリス」(2003=米)にも言えることだが。
劇中のミュージカル・ナンバルはないものの、プロモ用に「zinda hoon main(私は生きている)」と「yeh hai meri kahani(これが俺の物語)」が用意されている。
前者は、アルバム「Nazakat」を持つ女性シンガー、シバニー・カシャップをフィーチャル。ミラー・タイルを張り詰めた倉庫内で踊っている振りを見せるラーラーに時よりシバニーがインサートされるというもの。シバニーは「Mr Ya Miss」(2005)にも「fakr hai aurat」を提供。
後者は、パーキスターンのロックバンド、ストリングスによるエンディング・ナンバル。プロモ・クリップでは、ストリングスのメンバルにサンジューとジョンが加わったレコーディング・スタジオ風景となっている。途中、サンジューがオヤヂギャグ?を連発して、ジョンたちが頭を抱え込むのが可笑しい。
監督のサンジャイ・グプタは、香港ノワールを確立した製作ツイ・ハーク、監督ジョン・ウー「男たちの挽歌」(1986=香港)のイタダキ、「Aatish」(1994)で監督デビュー。
サンジューの<獄中>期間にジャッキー・シュロフやサイーフ・アリー・カーン主演で2本ほど演出した以外は、すべて彼とのコンビを通し、盟友の間柄。「Astish」でチョウ・ユンファに相当する(!)役を演じたアディティヤ・パンチョリーなどは、サンジューが休んでいた2作にも登板し、彼のフィルモグラフィがストップする「Musafir」(2004)までほぼキャスティングされており、実に義理堅い男。
しかし、「Kauff(恐怖)」(2000)が「審査員」(1996=米)、「Jung」が「絶体×絶命」(1998=米)、「Kaante(棘)」(2002)が「レザボアドッグス」(1991=米)、「Musafir」が「Uターン」(1997=米)であるなど、「Yakeen(信頼)」(2005)のヴィクラム・バットと肩を並べる聖林イタダキ専門であるのはいただけないが。
サンジューの「Pittah(父)」(2002)やアミターブ・バッチャン主演「Viruddh…」(2005)などの良作を放った監督でもあるマヘーシュは、この陳腐な勝手にリメイク映画をどのように受け止め、出演までしたのか、多いに氣になるところである(しかもアテレコだし)。