Water(2005)#029
製作:デヴィッド・ハミルトン/脚本・監督:ディーパー・メーター/翻訳:アヌラーグ・カシャップ/撮影:ギレス・ナッツゲンス/詞:スクヴィンダール・スィン/音楽:A・R・ラフマーン、ミッシェル・ダナー/衣装:ドリー・アフルワッリア/編集:コリン・モニエ/美術:ディリープ・メーター/振付:ヴィクラマディティア・モトワネー
出演:シーマー・ビスワース、リサ・レイ、ジョン・エイブラハム、サララー(子役)、マノルマー、Dr.ヴィドゥラ・ジャヴァルゲカル、ラグヴィール・ヤーダウ、クルブーシャン・カールバンダー、ヴィナイ・パタク、ゲルソン・ダ・クナー、ロニカー・サイナニー、ミーラー・ビスワース
特別出演:ワヒーダー・レフマーン
トロント国際映画祭/LAインド映画祭2006:オープニング上映
カナダ・ギニー賞:撮影賞、音楽賞(ミッシェル・ダナー)、主演女優賞(シーマ・ビスワース)
バンクーバー映画祭:主演女優賞(リサ・レイ)、監督賞(ディーパ・メーフター)
スペイン・バリシャドリード国際映画祭:若者審査員賞
STORY
幼くして夫を失ったチュイヤー(サララー)は、寡婦の住むアシュラムに預けられる。そこで悩みを抱えるシャクンタラー(シーマー)と若きカルヤーニー(リサ)に親しくなるが、帰郷したナラヤン(ジョン)がカルヤーニーに一目惚れしたことから・・・。
Revie-U *結末に触れています。
夜明け、蓮の葉が一面に広がる美しい水辺を幌付きの牛車がゆっくりと進む。
荷台では子供が一心にサトウキビをかじっていて微笑ましい。木の実を口に運んだ花嫁のラーニー・ムカルジーが夫となったシャー・ルク・カーンからたしなめられる「Paheli」(2005)を思い出させるが、それとは異なり、本作で運ばれるのは死期間もない夫であり、年端もいかない幼妻。
少女は口減らしのために自分が齡の離れた「大人」の花嫁になったことも、その「夫」が死に自分が「寡婦」になったことも理解することなく、髪をざんぎりに切り落とされ、父親によって尼寺ならぬ、寡婦が集められて暮らすアシュラムへと預けられる。
母親の元に帰りたいと騒ぐその少女チュイヤーに擂り潰したハルディー(ターメリック)を塗って頭を冷やしてやるのが、寡婦の中でも一目置かれるシャクンタラー。インド文学史上、最も美しいヒロインとされるその名を預かりながら、中年にさしかかり醜く老いゆく恐怖と女としての性(さが)に悩み、そのために苛立ちを隠せない。
演ずるは「Kamoshi(沈黙のミュージカル)」(1998)のシーマー・ビスワース。クレジットがトップ・ビリングであるのは、無論、「女盗賊プーラン」Bandit Queen(1996)で名を知られるからだろう。
物語の核となるチュイヤーには、これがデビューとなる子役サララーが扮している。無垢なる子供らしく無邪氣に遊ぶさまから、誰にも屈しない強情さまで表情豊かに演じ、本作の魅力を倍増させている。
チュイヤーに子犬を与え目をかけるもうひとりの寡婦が、軟禁されているかのようにアシュラムの二階に住まわされているカルヤーニー。彼女だけは長い黒髪を垂らしているのだが、この理由は後になって明かされる(彼女もまた9歳にして、顔すら見たことのない夫のために寡婦となった)。
扮するは「Kasoor(過ち)」(2000)のリサ・レイ。ポーランドの血が流れるリサは、エキゾチックな容姿を持ち、憂いを秘めた魅惑的な「未亡人」としてはうってつけ。とつとつとした芝居が、かえってカルヤーニーの悲運を感じさせる。
彼女たち、寡婦が纏うのは、色染めしていない生成りのサーリー。チョーリー(ブラウス)も付けず、ただ一枚、身体に巻き付けるだけである。サーリーは針を通していないことから「清浄」な服装とされるが、昨今は縫製されたチョーリーとの揃いとなっているし、着付けを保つために安全ピンで留めたりする「不浄」な服装となってしまっている。
本作ではリサをはじめ、本来の着方通り、登場する寡婦たちはサーリーの下にペチコートはおろか下履きも着けていない。一枚の布で被っただけの姿は、カルヤーニーをより艶めかしく見せる。「Satyam
Shivam Sundaram(真・神・美)」(1978)でも、ズィーナト・アマンがチョーリーを着用せず、豊かな自然の実りから授かった生命の躍動を発露していた。
寡婦たちが暮らすアシュラムはクリスチャンの修道院とは異なり、男子禁制ではあるけれど、それぞれ日中は自由に出歩けるようで、カルヤーニーもチュイヤーを連れて沐浴に出かける。すると子犬が走り出し、それを追ってチュイヤーは迷子になってしまう。
そのチュイヤーを連れ帰るのが、法科の試験を終え田舎町に戻って来たばかりのインテリ青年ナラヤン。彼はひと目見たカルヤーニーに興味を示し、彼女自身もこの青年に惹かれる。
ナラヤンは名士の息子で、英国流の先進的な環境に預かれるブルジョワにありながらインドの姿に悩める青年。帰宅するなり、彼は自分の部屋に掛かっていた卒業写真を差し替え、信奉するガーンディーの写真を飾る。家を離れていた間に彼の中で変化があったことを語るかのようなショットだ。
時代は分離独立前の1938年、ガーンディー暗殺より10年前に設定されている。すでにガーンディーは1930年に「塩の行進」を果たし独立運動の精神的指導者として名を成していたはずであるが、このあたりの人々にその名が浸透しているわけではないのが脚本の妙技。
アシュラムは、牢名主さながらのマドゥマティに仕切られていて、彼女は通りに面したベッドで寛ぐ(実は「マヌ法典」では禁じられている行為)。時より年増のヒジュラー、グラビーが立ち寄っては油を売ってゆき、ガーンディーについてもこの男と女の狭間に位置するヒジュラーから語られるのが興味深い。
つまりは、南アフリカのジャンガルからやって来たモーハンダース・ガーンディーは、禁酒や禁欲を説いたり、不可触民を「ハリジャン(神の子)」と呼んだりする、と告げるのだが、マドゥマティに鼻であしらわれてしまう(実際のところ、ガーンディーがブラフマーチャルヤー<禁欲>の誓いを立てたのは妻に対してだけであったらしい)。
そうして、マドゥマティはグラビーよりチラムを取り上げては、煙をくゆらせながらシヴァ神を讚えるのだ。
カルヤーニーにひと目会おうと、ナラヤンはチュイヤーをだしにアシュラムを訪ねるが、無論、シャクンタラーから追い返される。ちょうど彼女は二階のバルコニーで洗濯しているところで、チュイヤーと洗濯物を絞ると、それが帰り際のナラヤンへと降りかかる。
この、カルヤーニーが二階に住まわされている設定が活かされているのにも感心するが、カナダ主体の合作映画ながらインド映画定石の雨イコール恋の予感・祝福となっていることもよい。この後、果たして雨が降り出し、差そうとした傘を風に飛ばされたナラヤンはむしろ雨に濡れる心地よさに浸り、カルヤーニーとチュイヤーが遊び興じる姿から彼を再び見ることが出来た彼女の歓びが観る者の心に躍起する。
と、ここに流れるのは、A・R・ラフマーンの手による「aayo re sakhi」(スクヴィンダール・スィン/サーダナ・サルガム)。同じく彼が音楽を提供した「Lagaan」ラガーン(2001)や「Swades(祖国)」(2004)では、その時代設定や農村の風景と西洋的に洗練されたサウンドに温度差が生じていたものだが、本作では時代設定を守り、ダブラーを中心とした古典楽器を使うことで亜熱帯に降り注ぐ天の恵みを爽やかに伝える。また、プレイバック・シンガーのスクヴィンダールが詞も担当している。
もっとも、ミュージカル・ナンバーとして当てはめられているわけではないので、全般的に歌の被さるシーンは短く、ボリウッド・スタンダードからするとやはり物足りなく、よい歌だけにもっと聴かせて欲しかったものである。
さて、寡婦の境遇であるが、冒頭に掲げられている「マヌ法典」(BC2世紀〜AD2世紀に編纂)において、事細かに定められている。
すなわち、寡婦は、すでに死んだ者とされ、感情を表してはならず、着飾ることはおろか嗜好物(ピーナッツ!)さえも許さず、祝いの席からは外される忌むべきもの、不吉なものとされる。
チュイヤーが子犬を捕まえようと飛び出した時、後を追おうとしたカルヤーニーはぶつかった婦人に「寡婦が娘のように走るなんてはしたない。あんたがぶつかったから、沐浴し直さないとならないじゃないの!」と罵られ、ガートに水汲みに行ったシャクンタラーは屍体が焼かれるすぐ横で平然と新郎新婦を祝福するパンディットから「花嫁の影に触れないように氣をつけろ」と言われる。
聖典には、女は亡き夫と共に荼毘に付されるか、隠遁して生き延びるか、もし家族の許しがあれば夫の弟とのみ再婚することが出来るとされ、先の「マヌ法典」では、教えに従わず不貞を働いた寡婦は来世で屍肉を漁るジャッカルに生まれ変わるとさえ書かれる。
そのために寡婦たちは一日のほとんどをクリシュナ神へ、現世では落ちることのない穢れを来世では落とせるようにと祈り続けるのだが、修道院の尼僧たちとの決定的な違いは、ただ寡婦たちは生ける屍のごとく老いながら死を待つ身でしかないということだ。ざんぎり頭の彼女たちはグロテスクにすら描かれており、生きることの残酷さを見せつけられるかのようだ。
唯一、寡婦たちに笑みが見られ、その暮らしに色彩が蘇るのが春の祭りホーリーである。幼いチュイヤーをクリシュナ神に見立てて祝うのだ。彼女たちは、まるでクリシュナの数多き恋人たちにも見えるが、夜ともなれば亡き夫を忘れられず伴侶のいない哀しみに噎び泣く。
そのひとり、老齢の寡婦は砂糖菓子ミターイーを懐かしむ。町へ出たチュイヤーがひとつ、それを買って彼女に差し出すと、その甘さが口の中に広がる瞬間、彼女の記憶は結婚の儀の遠い思い出へとつながる(彼女もまた幼児婚)。
その老女が今際のきわ、聖なる水を所望し、チュイヤーが汲みに行かされる。 帰り道、好機を待っていたナラヤンが呼び止め、カルヤーニーへの手紙を託すのだが、この道草のために死に水は間に合わず、老女は息を引き取ってしまっていた。
こうして、 この恋路が不吉な結果をもたらすであろうことが暗に示される。
ジョン・エイブラハムは、モデル出身であるが近年つとに芝居が上達して来た。本作では、オールバックに丸縁眼鏡という役作りで、インド独立前のインテリ青年の雰囲氣を醸し出している。
そのナラヤンが想いを抱くカルヤーニーを待ちながら、水辺でバンスリーを奏でているのは、無論、クリシュナ神に見立てられてのこと。
町角に揺らめく灯火の煤でカージャル(黒墨のアイライン。これも寡婦は禁止されている)を施して現れた愛しき者に口ずさむ詩は「アビジュニャーナシャクンタラー(指輪で思い出されたシャクンタラー)」で有名な詩聖カーリーダーサの作「メーガドゥータ(雲の使者)」。離れ離れとなった愛する者への想いを雲が使者となって伝えるとする詩である。
ナラヤンは裕福な名士のジョイント・ファミリーに育ち、西洋的な環境をよしとする家風にあって、従兄弟のラビンドラはシェークスピアを諳んじるほど。その一方で、ナラヤンの父親は公然と娼婦を自宅へデリバリーさせており、若きナラヤンはこの父親に対する疑問からインドの美徳を説くガンディーへと傾倒していったのであろう。
ナラヤンが寡婦との結婚を母へ告げる時、引き合いに出すラージャー・ラームモーハン・ローイとは、19世紀のヒンドゥー改革者。
彼は多神教であるヒンドゥー教の根源に絞り込んだ一神教への回帰を説いたが、サティー(寡婦殉死)に反対して寡婦の再婚を奨励するなど社会改革にも尽力した。
寡婦の再婚は、1935年に新たに公布されたインド統治法により「法律上」認められることとなったようだが、本作では、人々にはそれが伝わっていない1938年という時代設定を選んでいる。
幾度かの逢瀬の後、ナラヤンは寡婦であるカルヤーニーを嫁にしたいと求婚し、彼女はこれに夫への礼拝プラナームで答える。
だが、この話はマドゥマティの耳に届き、彼女は髪をざんぎりに切られ、部屋に幽閉されてしまう。
もっとも、リサの「ざんぎり頭」は、その実、こざっぱりとしたショートカット。これは、寡婦でも美しくあって恋してよい、とするためだろう。
余談であるが、本来、お歯黒を染めているはずの年増女と若い男が密通するエグさを売り物とした近松門左衛門の原作を樋口可南子を起用して綺麗に仕立て直してしまった五社英雄版「女殺油地獄」(1992=松竹)とは異なる。
さて、幽閉されたカルヤーニーを彼の元へ解き放ったのは、シャクンタラーであった。彼女は女としてのアイデンティティーを認める意味でも、カルヤーニーの再婚を祝福しようとしたのだ。
もっとも、運命の神はこれを喜ばなかった。
ナラヤンに抱かれ、カルヤーニーは小舟に乗って彼岸に建つ彼の屋敷へと連れてゆかれる。が、父親の名を知った彼女は舟を岸に戻すよう静かに言い、その理由は「あなたのお父さんに訊いて」とだけ言う。この、揺られる小舟が運命の大河の中でちっぽけな人間の儚さを感じさせる。
実のところ、カルヤーニーは、マドゥマティの指示を受けたグラビーによってナラヤンの父親へと夜な夜なデリバリーされていたのだ。それ故、寡婦の中でも若く美しい彼女だけが髪を長く伸ばすことを許され、彼女だけが二階の別間に鳥籠の中のインコのように置かれ、アシュラムの維持費を稼ぎ出していたのだった。
行き場を失ったカルヤーニーはアシュラムへと戻ろうとするが、自分がマドゥマティの愛玩するインコでしかないことを悟り、その夜、聖なる川に身を沈める。
脚本は筆を緩めることなく、残酷にも物語を進める。
チュイヤーはカルヤーニーを監禁したマドゥマティへの怒りから彼女のインコを殺してしまうが、そのカルマであるかのように、今度は彼女がナラヤンの父、インドの美徳とは反する果てしなき欲望の中へと送り届けられるのだ。シャクンタラーはこれに氣付き、チュイヤーを救い出そうとするが時はすでに遅く、苦痛に身をよじる幼女が岸へと戻されたところであった。
そして、この日、かのガーンディーが町の鉄道駅に停車する際、演説するとの知らせが伝わる。
チュイヤーを抱いたシャクンタラーは、道行く人々に押し流され、我知らずガーンディーの演説会場へとたどり着く。
プラットフォームにあつらえられた小綺麗な演台の上にたたずむガーンディーが、幼くして寡婦となったチュイヤーと同じ年頃の子供から花輪を捧げられていた。
「私は長い間、神は真実であると信じて来た。しかし今、私は真実こそ神であることを知り得た。真実の追求が、私にとってとても重要である。私は、それがあなた方にとっても同じになると信じます」とだけ語り、偉大な聖人は列車に乗り込む。満場が呼応する「ガンディー万歳!」との声援を浴びて。
ナラヤンもまた故郷を捨て、ガンディーと共に列車に乗ろうとしていた。無知なるシャクンタラーはガンディーならチュイヤーを救えるだろうと列車を追い、それをみつけたナラヤンが彼女を受け取る。
しかし、列車を見送ったシャクンタラーの心中は重いままであった。
監督は「Sam and Me」(1997=加)でカンヌ映画祭特別表彰を受賞した、「カミーラ/あなたといた夏」(1994=英・加)、「Bollywood/Hollywood」(2003=加)のディーパ・メーフター。
彼女は、映画配給をしていた父親を持ち、ニューデリー大学を卒業。TVプロデューサーのカナダ人と結婚した時にトロントへ移り住み活動を続ける。本作は、ヒンドゥーの因習に触れる同性愛映画として物議を醸した「FIRE」Fire(1996=印・加)、アーミル・カーンを起用し印パ分離独立の渦中を描いた「1947:Earth」(1998=印・加)との3部作をなす。
当初、シャクンタラーにシャバナ・アズミー、カルヤーニーにナンディータ・ダースという「Fire」のコンビ、そしてナラヤン役にアクシャイ・クマールを想定して企画されていたが、ヒンドゥー・ナショナリストの強い抗議を喰らって長らくペンディングされていた。
女性らしい視点から、古来より連綿と続く因習の不合理を突く問題作を作り続け、本作では不可触民の地位向上に務めたとされるガーンディーが、その名声の割りには、寡婦をはじめとする女性の地位向上には何も貢献していないことを、さらには、このような寡婦制度を受け入れている土壌としてインドの従順な女性自身にも理由があることを鋭く描いている(老パンディットの説法に集まった寡婦たちが、幼いチュイヤーの言葉「男の寡婦の家はどこにあるの?」に騒ぎたてるのは彼女たち自身である)。
オリジナル脚本の完成度、演出力も高く、本作はあまたあるヒンディー語作品の中でも一級品であり、最も記憶されるべき部類に入ることであろう。
製作のデヴィッド・ハミルトンは「ビリティス」(1997=仏)で知られる写真家とは別人。
さほどスキャンダラスな脚本には思えないが、寡婦の恋というテーマはヒンドゥーにとってタブーにあたるためヴァーラーナースィー・ロケが行えず、スリランカにガートのオープン・セットを建てて撮影されている。カルヤーニーらが住まう、板を打ち付けただけの粗末な二階屋も撮影用に建てられた大道具であるが、巧みにウェザリングが施され、長年の雨風に打たれたように見える。
ギニー賞を受賞したギレス・ナッツゲンスの撮影は感嘆するに値し、なにより朝陽を受ける水辺に蓮が広がったファースト・ショットは印象派の絵画を見るように美しい。カルヤーニーの遺灰を聖なる河に流す場面で、逆光に煌めく水面は魂の永遠を表すかのようだ。
ヒンディー語映画ではあるが、オープニング・タイトルバックのスタッフ・クレジットでキャスティング・コーディネーターが筆頭であること、またコレオグラファーの扱いが小さいことからもカナダ主体の製作であることが伺われる。
ボリウッドでは通常、フィルミーソングを提供する作曲家はその役割の大きさから「音楽監督」のクレジットを奢られるが、本作ではA・R・ラフマーンは「song composed」、背景音楽のミッシェル・ダナーは「music composed」と紹介されている。そのダナーによる、バンスリーの音色とタンブーラの響きが悠久の流れを思わせるエンディング・スコアも忘れ難い。
サポーティングは、アシュラムを治めるマドゥマティ役に、サイレント時代からのキャリアを持つマノラマー。ベッドに横たわり、アシュラムを顎で仕切る姿はどことなくジャバ・ザ・ハットを彷彿。子役時代の作品に「Sarala(サララー)」(1928)があるのが興味深い。
マドゥマティと結託して女衒を務めるヒジュラー、グラビー役がラグヴィール・ヤーダウ。「Meenaxi」(2004)では、詰め襟も凛々しい?作家ナワーブ役で堂々主役に昇格! 本作では、持ち前の高音を抑え、ヒジュラーを艶やかに演じる。
シャクンタラーが師と仰ぎ、身の回りのセワをする老パンディット役が、「Lagaan」の藩王、クルブーシャン・カールバンダー。例の単調な細切れ台詞同様に長々とマントラを唱える。かつて、スキンヘッドでインドを支配しようとする悪の帝王シャーカルを演じた「Shaan(栄光)」(1980)の、痩せていた頃が懐かしい。
西洋的なライフ・スタイルに染まったナラヤンの従兄弟、ラビンドラ役は「ミモラ」Hum Dil De Chuke Sanam(1999)の端役、ヴィネイ・パタク。
また、ナラヤンの母役に、往年の名女優ワヒーダー・レフマーンが特別出演として配役されている。銀幕に復帰したての頃で、「私はガンディーを殺していない」Maine Gandhi Ko Nahin Mara(2005)より撮影時期が前だったのか、芝居につたなさを感じるが、老いた母親とはこのようなものであろう。
ガーンディー役モーハン・ジャンギアニーはヒンディーが話せなかったのか、声はズル・ヴィラニーが当てている。
チュイヤーを乗せたガンディー列車が走る去るラスト・ショット、シャクンタラーの重い表情が長く、長く続く。それは、封建的な問題の数々を抱えるインドの変革に対して、選択肢は間違っていなかったのか、問い直しているかのようだ。
そして、2001年の国勢調査において、今も2000年前に書かれた「マヌ法典」に従い、多くが社会的、経済的、文化的に剥奪された状態で34万人にも及ぶ寡婦がインド国内で隔離されていることが告げられる。
単に、ガーンディーを回顧せよ、という主張に留まる「私はガンディーを殺していない」と見比べると、本作の問い掛けは深い。
*追記 07.08.03
アジアフォーカス・福岡国際映画祭2007にて、9月20日・21日・22日に上映がディーパ・メーター特集で火・地・水3部作が上映決定! 他2作はシャバナ・アーズミー×ナンディーター・ダース「炎」Fire(1996)、アーミル・カーン主演「1947:大地」Earth(1998)。
また、シャー・ルク・カーン主演「Don」(2007)が新規上映、ウルミラー・マートンドカル主演「私はガンディーを殺していない」Maine Gandhi Ko Nahin Mara(2005)が再上映される。