Khuda Gawah(1992)#266
「Khuda Gawah(神に誓って)」★★★★☆
フダー・ガワー
製作:マノージ・デーサーイー、ナーズィル・アフメド/監督:ムクール・S・アナン(=アーナンド)/脚本・台詞:サントーシュ・サロージ/台詞:ラージ・クマール・ベディ/撮影:W・B・ラーオ/作詞:アナン(=アーナンド)・バクシー/音楽:ラクシュミーカーント-ピャーレーラール/アクション監督:ティヌー・ヴェルマー/美術監督:スレーシュ・サーワント/視覚デザイン:スタジオ・リンク/振付:サロージ・カーン、チンニー・プラカーシュ/編集:R・ラージェーンドラン
出演:アミターブ・バッチャン、シュリーデヴィー、ナーガールジュナ、シルパー・シロドーカル、キラン・クマール、ダニー・デンゾンパ、アンジャナー・ムンターズ、ビーナー、ヴィクラム・ゴーカレー、バーラト・カプール、シャンミー、スレンドラ・パル、アリー・カーン、ミニー・タッバスム、ブーシャン・ジーヴァン、アンジャン・スリワスターワ、ディーパック・シルケー、アラヴィンド・ラトール、カリード・シャー、マスタル・イムラーン
公開日:1992年5月8日(年間トップ2ヒット!)日本未公開
Filmfare Awards 監督賞/助演男優賞(ダニー・デンゾンパ)
STORY
カーブルに暮らす勇敢なる馬賊の男バッシャー(アミターブ)は、ブスカシで競い合った氣高き美女ベナズィール(シュリデヴィー)を見初め、求婚。果たしてそれは受け入れられる。初夜が明け、服役するためにインドへとバッシャーは旅立つが、さらなる罪状が課せられる。20年後、父を捜しに娘メヘンディー(シュリデヴィー)がインドへと向かい…。
Revie-U
1991年、初めてカトマンドゥーを訪れ、ネパールTVのインタビューに答えるアミターブ・バッチャンに衝撃を受けた。あの時、天下のビッグBは本作のロケにネパールを訪れていたのであった。
冒頭、荒涼としたデザート地帯にアミターブの深く真理に共鳴するような低い声で語られるナレーション。アーシュトーシュ・ゴーワリカル監督が「ラガーン」Lagaan(2001)でアミターブにナレーターを依頼したのも、本作への敬愛であろう。 それくらい痺れるオープニングだ。
舞台となるのはアフガニスタン、カーブル。米「ランボー 怒りの脱出」にも登場した騎馬レース、ブスカシの白熱戦からスタート。アミターブ自ら、羊を奪い合って馬を駆る姿が迫力!
ボリウッドの帝王、アミターブ扮するバッシャー(帝王)・カーンは、「アルターフ」Mission:Kashmir(2000)でジャッキー・シュロフが演じた、かの誇り高きパターン(=パシュトゥーン)人。「Asoka」アショーカ大王(2001)の製作を引き受けたのもシャー・ルク・カーンがパターンの血が流れているからだという(アショーカ王の法勅石碑は遠くアフガニスタンでも発見されている)。
復讐は部族の男として果たさねばならぬ掟。
宿敵ハビブッラーがインドで死刑執行寸前と知るや警官隊の前に乗り込み、バッシャーは宿敵を奪還。無論、自ら制裁を下すため。バッシャーはこれにより罪を負うが、刑務所長の許しを得て一旦帰省。嫁を娶りに戻るや初夜の翌朝、お縄を頂戴するために再び馬を引いて旅立つ。
途中、ハビブッラーの兄弟パーシャーに狙撃され深手を負いながらも刑務所長の元に出頭し、その両腕を差し出すのだ。
この、<パターンの男に二言はない>という仁義を通したことからバッシャーと刑務所長との間に生涯の友情が芽生える。獄中の身となったバッシャーは、所長の娘を誘拐したパーシャーの下へと乗り込むが、逆に所長殺害の冤罪を着せられたばかりか、夫を刺し殺してしまった同僚悪徳警官の妻の身代わりとなることも辞さず無期懲役となる。さらには、輿入れして間もない新妻へ深い愛から自分を死んだことにするのだ。
(ムスリムの結婚式における返答「クブール」が、裁判シーンでも口にされ、胸を打つ!)
アミターブは本作で引退を考えていたとはいえ、五十路になったばかり。黒髭姿も実に精悍、芝居も迫真とあっては、インド人でなくとも引退を惜しもうというもの。その深い台詞まわりが心酔わせる。
だが、冒頭、激走するブスカシの最中、ターバンの裾で顔を包んだシュリーデヴィーのまなこが映し出されるや、アミターブなどどこへやら。その大きな瞳が画面をかっさらってしまうのだ。
続く、勝利の宴ナンバル「main asi cheez hai(我はこのような者)」でバックダンサーたちが巻き上げる砂ぼこりの中、瞬きひとつせず立ち尽くす役者根性にも恐れ入る。彼女のひときわ大きな瞼が閉じれば甘い風が吹いて頬を撫でられそうなほど!
再会ナンバル「tu mujhe kubool(君は私にうなずく)」(前半の輿入れイスラーム・バージョンではアルカー・ヤーグニクながら、後半はヒンドゥー・バージョンではプレイバックシンガーの女王ラター・マンゲーシュカルが奢られている)で見せるシュリデヴィーの舞いは、天下一品。バラタナティアム言うところのアサムユッタ・ハスタ(片手で見せる手の動き)は、神の奇跡を見るかのよう。「Bunty Aur Babli(バンティとバブリー)」(2005)におけるアイシュワリヤー・ラーイのゲスト・ナンバル「kajra re」も見事であったが、それを遥かに凌駕。振付はおそらくムジュラー・ナンバルを得意とするサロージ・カーンによるもの。
その上、クライマックスにはアミターブと騎馬の並走するという人間ブスカシ・シーンをも果敢に挑戦。まさしく誇り高きパターンの女を演じ切り、「有終の美を飾るはずだったアミターブ・バッチャンを完全に喰った」と評されたのも頷ける。
さらに後半の<現代>シーンでは、じゃじゃ馬娘メヘンディー役も兼ねるダブル・ロールとあってシュリデヴィーの愛らしさ倍増。
ブスカシ・シーン始め、手に汗握るアクション・シーンを取り仕切ったのは、1本立ち間もないアクション監督ティヌー・ヴェルマー(オープニング・クレジットではトップ・ビリング)。
よほど本作への思いが強かったのか、カシミールを舞台にした初監督作品「Maa Tujhe Salaam(母なる女神よ、汝に礼拝を)」(2002)でも騎馬レースを再現。異国情緒あふれるヒロイン像は、安手の特撮ヒロインを思わせたが、実は本作のシュリーデヴィーを変形させたものだろう。
サポーティングは、バッシャーと友情で結ばれる刑務所長<ラージプート・カーン>役に、「ミモラ」Hum Dil De Chuke Sanam(1999)の父役ヴィクラム・ゴーカレー(若い!)。
その娘ヒーナー(=へーナー)役は、ナムラター・シロドーカルの姉シルパー・シロドーカル。亡き父の意志を継いだ制服姿も実に凛々しい。
その母は「アシュラ」Anjaam(1994)でシャー・ルクの母を演じていたビーナー・バネルジー。
悪徳警官の息子ながらバッシャーの娘と恋に落ちる若き警官が、テルグ映画界のナーガルージュナ。暴走するトラックのシャーシにぶる下がるアクションを吹き替えなしでやって見せるものの、当初オファーされていたサンジャイ・ダットであった方が感情移入しやすかったと思ってならない。
バッシャーの宿敵パーシャー(共に帝王の意)役がキラン・クマール。「ストリート・オブ・ファイヤー」を翻案しマードゥリー・ディクシトをスターダムに押し上げた「Tezaab(酸)」(1987)でのワイルドな悪役を引き摺った安っぽさが佳い。
また、バッシャーに生涯尽くす親友役のダニー・デンゾンパは、FIlmfare Awards 助演男優賞を受賞。「Officer」(2001)、「16 Decembar」(2002)といったマイナー凡作も味わい深い演技で底上げしてしまう。シッキムの血を引く高貴ないでたちが「セブン・イヤーズ・イン・チベット」はじめ、異境の地によく似合う。
舞台はアフガンであり、部族文化をたっぷり描きこんでいるのが魅力。
ただし、カーブル・ロケはオープニングのブスカシ・シーンや一部のみ。その他はネパール・ロケで、ブシカシのゴール場面や後半の娘役ナンバル「mere watan mein maine」(バックダンサーがネパールの民族服)では古都パタン、アフガンの村や荒涼とした風景はアンナプルナ地区のジョムソンからムクティナートでの借景ロケ(そのため、ティベット系住民の仏教旗タルチョーが見られる)。
余談になるが、この地は92年にロケ地とも知らずこの地をトレッキングし、7年後に再訪した際、同行したティベッタン系の友人が「ここはアミター・バッチャンも来たことあるよ」と教えてくれた。 我々が参拝していた寺院は仏教徒だけでなく、ヒンドゥーの聖地でもあったので、90年代に引退状態にあったアミターブが暇に任せて聖地詣でをしたのだとばかり、ひとり納得していた。それが本作の撮影だったとは。
バッシャーが、ヒンドゥーの刑務所長を<ラージプート・カーン>と呼んだのは、自分の同じく誇り高い<ラージプートの男>という意味。
本作の魅力は人々の生き方にある。バッシャーは自分たちの文化に誇りを持ち、義に篤く、おのれの幸せも顧みず、クルバーン(犠牲の精神)に生きる。囚人に身を落としながらも、所長やその家族、娘たちから強い信頼を得る。その生き方は、まさに<帝王>。誇りと心情、そして信仰は力強い文化を生む。