Tera Mera Saath Rahen(2001)#258
Tera Mera Saath Rahen(おまえと俺は一蓮托生)02.08.28 ★★★★
テーラー・メーラー・サーテー・ラヘン
製作:N・R・パチシア/原案・脚本・監督/マヘーシュ・マンジュレーカル/台詞:ディーパック・クルカルニー/撮影:ヴィジャイ・アローラー/詞:サミール/音楽:アナン(=アーナンド)・ラージ・アナン/背景音楽:ミリンド・サーガル/アクション:ジャイ・スィン/振付:ニメーシュ・バット/美術:R・ヴェルマン/編集:V・N・マイェーカル
出演:アジャイ・デーヴガン、ソーナーリー・ベンドレー、ナムラター・シロードカル、シワジー・サータム、リーマー、プレーム・チョープラー、ドゥシュヤーント・ワーグ
公開日:2001年11月16日(日本未公開)
STORY
働き者のラージ(アジャイ)は、上司からの覚えもいい。元上司のカンナー(プレーム)から姪のマードゥリー(ソーナーリー)との見合いを勧められる。しかし、彼には脳性小児麻痺の弟ラホール(ドゥシュヤーント)がいて…。
Revie-U
仕事もせずにムダ話ばかりしているオヤヂ連中の尻拭いに残業を命じられるラージ。しかし、彼には残業できない理由があった。家には、脳性小児麻痺の弟ラホール(=ラーフル)が待っているのである。
厳しい<現実>だ。およそボリウッド・メジャー作品らしからぬ題材を好んで選ぶのは、「Vaastav(現実)」(1999)のマヘーシュ・マンジュレーカル。彼らしくもあり、それでいて意外な氣もする。
障害者の弟と二人暮らしの主人公ラージを演じるのは、見事に演技派に脱皮して久しいアジャイ・デーヴガン。
ローワー・ミドル・クラス向けチャウル(長屋的集合住宅)の隣人が、マンジュレーカル組とも言えるシワジー・サータムとリーマー・ラグー演じるグプタ夫妻。特にリーマーが、レディス・クラスに通ってる設定で氣取ったマダム英語を話すのが可笑しい。
娘のスマン(ナムラター・シロードカル)はラージにホの字で、朝食を届けては結婚を迫る。ついついアジャイも鼻の下を伸ばして妄想ナンバル「haqh jata de」となる。どこかで観たような海辺の古城は、「Kuch Kuch Hota Hai」何かが起きてる(1998)と同じスコットランド・ロケだ(他の海外ロケは、オーストリア)。
ある日、ラージを訪ねたカンナーが姪の縁談を持ってくる。大富豪ではないが、それなりにいい暮らしをするアッパー・ミドルのカンナーが、いくら人柄がよいとは言え、長屋暮らしのラージを婿にしようというのも変な話だが、これには訳があった(ここでは、その訳は知らされない。大した理由ではないが)。
氣が乗らないラージだが、一応カンナーの家を訪ねる。伯父のカンナー役がプレーム・チョープラーだし、どんな娘が出て来るかと思えば、紹介されたのがソーナーリー・ベンドレー扮するマードゥリー。これには、アジャイでなくとも鼻の下を伸ばして立ち尽くしてしまうことだろう!
そんなマードゥリーだが、実は一度婚約したものの話が流れてデッリーから帰って来た、いわば「出戻り」。そのことが彼女の口から伝えられ、まずは友達から始めましょう、ということになる(ふたりが結婚すると、ラージの苗字がディクシトなので、マードゥリー・ディクシトとなる!)。
当初、マードゥリー役は、スシュミター・セーンにオファーされていたというが、役柄からして彼女のゴージャスさが邪魔になったのではないか。ミス・ユニヴァースからミス・ボンベイに「格下げ」となった分、ソーナーリーの持つしっとりさが生きたようだ(ミス・インディアのナムラターは、汚れ役だが)。
ラホールを演じるのは、これがデビューの子役ドゥシュヤーント・ワーグ。肥えた日本の子供より遥かに肥満児が多い今どきのボリウッドの子役にあって、ドゥシュヤーントは手足が棒のように細く、もうほとんど完璧に本当の脳性麻痺に見える(もちろん、芝居)。
しかし、差別意識が一味も二味も違うインドだけに、ラホールはチャウルの住人みんなから暖かく愛されている。独立記念日に「Hum Saath-Saath Hain(みんな一緒に)」(1999)よろしく開かれる隠し芸大会では、なんと「俺たちのリティク・ローシャン」として、ステージでメガヒット・ナンバル「kaho naa…pyaar hai」を踊ってしまう!
それだけに留まらず、グプタに贈ってもらったジャンボジェットのオモチャをフィーチャルして、住人みんなで飛行機ゴッコをするミュージカル・ナンバル「jumbo jet」も。アジャイ、ナムラターはじめシワジーやリーマーも混じって「ジャンボジェット、ズィイイイ〜ン」と中庭で踊るのだから痛快だ。
そして、ミセス・グプタなど、ラホールが施設に入れられると聞くと、「うちの養子にしよう」と言い出すほど。
マードゥリーとの恋愛が発展してゆくにつれ、ラージに重くのし掛かって来るのが、ラホールの存在だ。昼間の世話に使用人のシャンカルを雇っているとはいえ、こんなことでは永久に結婚も出来ない。そんな氣持ちとは裏腹に、マードゥリーがふと「施設に入れたら」と口を滑らしたため、ラージは彼女と仲違いしてしまう。
しかし、ラージはマードゥリーへの想いが募り、意を決してラホールを施設へと入れる。これで自由になれる、これで結婚できる、これで幸福になれる、と思ったラージだが、ラホールがいなくなってみれば心にポッカリ穴が開いてしまっていることに氣付くのだった。
脚本・監督のマヘーシュは、コワモテの顔に似合わず、ローワー・ミドル・クラスを見据えたヒューマンな作品を怒濤の勢いでリリースしているが、本作は2週間後にリリースされた、スポ根物「Ehsaas(感覚)」(2001)と同じく共依存の関係をテーマにしている。
マヘーシュの脚本術は、起承転結のしっかりしたオーソドックスな作りで、ラホールが掛け替えのない存在だと悟ったラージは彼を施設から連れ戻し、ラージとマードゥリーの橋渡しもラホールの見せ場として用意された「お約束」のハッピー・エンディングとなる。
批評家好みの暗いエンディングだった「Vaastav」と比べると、幾分違った印象を受けるが、マヘーシュにとっては溜め込んだテーマを企画が通る形でどんどん発表してゆきたいという思いなのだろう。
興味深いことに、ボリウッドのレビューでは、ラホールのキャラクターやドゥシュヤーント・ワーグの演技についてほとんど触れられていない。黙殺しているのではなく、むしろ「障害者」という者をあえて意識して区別していないのだろう。
もちろん、劇中には、ラホールのことを病院の看護夫や警官が平然と「パーガル」と言って、ラージの怒りを買っていたりもするし、施設は世間と隔離された生き地獄というようなイメージもある。
しかし、どこかの国のように「障害者」をカッコで括って、彼らが風ゾク店へ行くことも本当は否定してしまいたい「臭い物にはフタ」式の風潮より、風通しがよくていいではないか(ちなみに、その昔、ビューティ・ペアを売り出した全日本女子プロレスでは、巡業の目玉でもあった小人プロレスをTVでオン・エアさせようと試みたが、どの局もOKしなかった。小人レスラーたちは「なぜオレたちだけTVに出ちゃいけないんだ!」と嘆いていたという)。
ところで、タイトルの「Tera Mera Saath Rahen」だが、ラージとラホールの関係だけでなく、苦楽を分け合い、氣の置けない長屋の暮らしそのものを表している。
隣のグプター家はグプター家で、「親父はガンコでダサイ」と息子からもからかわれ、酔ったグプタを慰めるのがラージの務めとなっているし、ラージにフラれたスマンはどこかの男と駆け落ちしてしまうが、捨てられて戻って来た上に妊娠までしている。
また、同じフロアには一人暮らしの老人がいて、普段は若者連中にからかわれてもいるが、彼が疲労で倒れてしまうと、その若者たちを含めた住人全員が集まって回復を気遣うのだ。
この、もうひとつの主人公とも呼べる集合住宅はセットはセットなのだが、なんと本作のために建てられたオープンセット! コの字型2階建て(日本の建築なら3階に相当する高さ)に広々とした中庭もあり、ちょっとした学校くらいデカイ。しかも向かいの建物や商店街までしっかり作り込んでいる。
さすがに本作だけの予算では無理ということで、美術の大御所R・ヴェルマンがスタジオに掛け合い、その後も使用できるようなオープン・セットとして本格式に建てられた(400人夫で35日かけて作られたとか)。さっそく「Tumko
Na Bhool Paayenge(君を絶対忘れない)」(2002)でも時計台が付け加えられ、クライマックスの銃撃戦で存分に使用されていた。
しかし、明らかに「廃校」っぽかった「Tumko Na Bhool Paayenge」に比べ、向かいの住宅や通りまでエキストラを配して生活感をあふれさせた本作は、ほとんどセットとは思えない出来になっている。
*追記 2010,07,13
チャールのオープン・セットは、マヘーシュ製作「Plan Jaaye Par Shaan Na Jaaye」(2003)でも使用されている。本作のスピンオフ的作品で、チャウルの住人たちにスポットを当てた群像人情劇。本作ヒロインのオファーを出していたスシュミターがストーリーテラーとして特別出演。マヘーシュもこの後、売り出しをかけるグンダー(愚連隊)の兄貴役でちらりと登場。
*追記 2011,05,25
タイトルは、アミターブ・バッチャン N ヌータン(カジョールの叔母)共演の文芸作品「Saudagar(商人)」(1973)からラター・マンゲーシュカルがプレイバックする可憐なナンバル「tera mera sath rahe(あなたも私も共に)」から拝借。