ブック・レビュー file.3「想い出の小路」
「想い出の小路」
ショーカット・カイフィー著
村上明香・麻田 豊訳/ウルドゥー文学会刊
女優が回想する在りし日のインドから今を想う
ボリウッドのフィルミー・ソングに耳を澄ませていると、実に簡素な語彙を並べながら深遠な歌詞となって紡がれていることにはっとさせられる。大衆娯楽の王道として片づけられがちなボリウッド映画が長い年月に渡って人々を深く魅了してやまないのは、作詞や台詞作家に詩人や文学者が起用されているが故。詩をこよなく愛するイスラーム文化の影響も大きいことだろう。
「想い出の小路」(原題「Yaad Ki Rahgruzar」)は、インド独立を挟んで進歩的なウルドゥー詩人として活躍し、グル・ダット監督作「紙の花」Kaagaz Ke Phool (1959)などの作詞も手がけたカイフィー・アーズミーの妻であり、名作映画「Umrao Jaan」踊り子( 1981)や「サラーム・ボンベイ!」Salaam Bombay! (1988)などに出演している女優ショーカット・カイフィーの自伝である。あるいは、インドを代表する国際的名女優であり、政治家・社会運動家としても大きな成果をあげているシャバーナ・アーズミーの母と紹介するべきか。
月並みな言葉を用いれば「まるで映画のスクリーンを見ているよう」に若きショーカットとカイフィーの出会い、独立前後のインドの実像が綴られる。ひとりの舞台女優、変動期にあったインドの社会運動家の生き様が記された貴重な記録というだけでなく、ボリウッド映画界の側面を知ることができる資料としても一級品であるのが嬉しい。なにしろ口絵写真には、本誌6号でインタビューしたグルザール師やプレイバックシンガーの巨星ラター・マンゲーシュカル(アーシャー・ボースレーの姉)姿も見ることができるし、本誌の人氣シリーズ<ボリウッド家系図>を凌駕する(乳母の名まで!)アーズミー家の家系図も折り込みで製本されている。
特にボリウッド映画研究において興味深いのは、インド独立間もない頃に依頼された歌詞と脚本の報酬がなんと5000ルピーという記述だろう。新聞に書く詩一片が5ルピーの当時である。このことから見ても、いかにボリウッドが歌詞と台詞に重きを置いているか解ろうというものだ。
当時のボリウッド映画で活躍する俳優、あるいはトップ・スター、ディリープ・クマールの抑えた芝居は世界的に見ても非常に洗練され、現代にも通ずる繊細な芝居を見せていたが、これもショーカットがボリウッド随一の映画一族として後にカプール帝国を築くプリットヴィー・ラージ・カプール(本誌9号参照)の劇団時代を綴った一章からその理由が氷解。
また、長女シャバーナについて書かれたくだりが胸を突く。ショーカットは夭折した長男の転生とばかりついつい次男に愛を注ぎ込み、感受性の強いシャバーナは常にスポイルされているように感じ、ある時、学校の理科室で青酸カリを呑んだことさえあったという。
ここで思い出されるのは、彼女が出演した秀作のひとつ「Tehzeeb (テヘジーブ)」(2003)だ。ここでのシャバーナの役どころは、成功した歌手ルクサーナ。その芸能活動故に家には居着かない。長女テヘジーブ(ウルミラー・マートーンドカル)は幼い頃、母が父を殺す場面を<見た>と信じており、ルクサーナが知恵遅れの妹ナズニーン(ディヤー・ミルザー)をスポイルしていることも手伝って愛憎の念を抱き続けている。映画は、ルクサーナの氣まぐれな訪問により機能不全にあった見せかけの家族が徐々に心の絆を取り戻してゆく様を文芸調に描く。シャバーナは本作でZee Cine Awards助演女優賞を受賞しているが、撮影時、彼女の心中にあったものは、幼少期の想い出ではなかろうか。
アイシュワリヤー・ラーイを起用してリメイクされた「Umrao Jaan」(2006)にて、シャバーナは旧作で母ショーカットが演じた廓の女将役をこれまた艶やかに演じ切っていた。後年まで母子の確執が残っていたとは到底思えないが、このように本書は読む者にも様々な映画的想い出の小路へと誘う。
日本語で読むことが出来るボリウッド関連の良質な資料はごくごく少なく、本書は黎明に花開き、仄かな芳香を讚える一輪の薔薇となろう。一般書籍としての刊行が望まれる。
(すぎたカズト/初出「ナマステ・ボリウッド 18号」2009年4月-5月)

(c) Shaukat Kaifi
*美女競演映画「Tehzeeb」(2003)は「礼儀」の意。イングマール・ベルイマン監督作「秋のソナタ」を下敷きに制作。音楽はA・R・ラフマーン。「Umrao Jaan」に関するネタもあることから、シャバーナを起用ということで、彼女と母の暗喩?
*殺人事件の目撃を境に封印していた民衆路上演劇の過去を解き映画スターが行動を起こす展開はデリーの国際映画祭で民衆運動家惨殺事件について言及したシャバーナからインスパイアしたアジャイ・デーヴガン主演「Halla Bol (正義を叫べ)」(2003)も必見!