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ボリウッド千一夜 cap.1 パルヴィーニー・デヴィの瞳

2010.09.27

ボリウッド千一夜/K・J・ヤール
第一夜 パルヴィーニー・デヴィの瞳

目の前に、新しいチャイが置かれた。ふと顔を上げると、店主のサリーム・チャチャ(小父)が見守っていた。ジャーヴェードは、もう2時間もひとりでテーブルに向かい、黙りこくっていたのだ。
「今日、脚本が突き返されたんです。先週は映画にするからと、プロデューサー・サーブ(〜さん)は言っていたのに」
「見せてごらん」
ファイリングされた脚本を受け取るとチャチャは丹念にページをめくり、ジャーヴェードは無骨なチャイグラスを指先で撫でながら待ち続けた。

「物語は、素晴らしい。けれど、ヒーロー(主人公)がヒロインにどうしてそこまで惚れ込んだのか、書き足した方がいい」
「チャチャ・ジー。僕は脚本家なんだ。物語の書き方はよく解ってる。映画を全く観ないあなたがそんなことを言わないでください」
映画好きでない人間を探すのが難しいこの街で、映画なしでは生きてゆけないフィルミー・サーラーが集まり、始終この店で語りあっていた。それなのに、店主のサリーム・チャチャは、映画を観に行くどころか、客たちの話に加わることなど一度もなかった。
「どうして私が映画を観なくなったか、その理由を話そうか」

若かったサリームは映画監督を目指してこの街にやってきた。優秀な脚本を書き、監督に昇進するため、毎日、プロデューサーが出入りする店を徘徊し、なんとか撮影所にもぐりこんでスポット・ボーイ(小間使い)の小さな仕事を得た。フィルム・スターたちを目の当たりにするきらびやかな毎日に酔いしれ、売り込むための脚本を書く暇はなかった。
ある日、幸運にも当代一の人氣女優パルヴィーニー・デヴィの撮影に当たった。愛を囁(ささや)くシーンだったが、相手役の男優は自分のアングルを撮り終えたからと帰ってしまっていた。3度目のリテイクで、それは起きた。台詞に感情がこもるからと、照明の傍らで固唾(かたず)を呑んでいたサリームをキャメラの横に立たせたのだ。手が届くすぐ先にあの小さな顔があった。台詞のひとつ毎に彼女の熱い吐息が頬を撫で上げ、強いタングステン・ライトの光が身を焦がした。瑠璃(るり)色の大きな瞳の中に照り返されたサリームの顔が映り込み、世界は消滅した。

残酷にも至福は「カット! プリント!」という監督の掛け声によって断ち切られた。この世の蜜を集めて煮詰めたアムリタのように芳しかった女神は、現実の苦みの中に舞い戻っていた。テイクがOKとなると、サリームには目もくれずメイク・ルームへと消えた。余韻に浸ったまま思うように始動できないサリームの脳は、ただひとつ認識していた。もう自分には脚本を書く力も、なりふり構わず立ち回って監督になろうという執念も持ち合わせていないことを。

サリームは映画の仕事をやめ、いくつかの商売で小金をためた後、この小さな茶屋をフィルミースターン撮影所のそばに開いた。
「彼女にみつめられた時、人生から意味を見出す理由を失った。そしてあの時以来、私は長いメーラー(縁日)の中にいるのさ」
チャチャは話し終えると、モバイル(携帯電話)を取りだした。
「ラージ・サーハブ(〜さん)、お元氣ですか? いい脚本を探してると言っていましたね。みつかりましたよ、とびきりいいのが」
居たたまれず、ジャーヴェードはチャイを口に運んだ。ひたすら甘く、そしてこぼれた涙のほろ苦さが口の中に拡がった。

(初出 ナマステ・ボリウッド#19 2009,Jul-Aug/改稿)

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