アッチャー・ソングス
yeh raaste
hain pyaar ke
シャーン
ジャスピンデール・ナールラー
jo pyaar karta hai
アヌラーダー・パウドーワール
カヴィタ・クリシュナムールティー
yeh dil mohabbat mein
ウディット・ナラヤン
アルカー・ヤーグニク
halle halle
ヴィノード・ラトード
アルカー・ヤーグニク
mera dil ek khali kamra
ウディット・ナラヤン
aaja-aaja
アーシャー・ボースレー
bam bhole
アルカー・ヤーグニク
ヴィノード・ラトード
kyoya kyoya chand hai
ウディット・ナラヤン
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Yeh Raaste Hain Pyaar Ke(愛の道標)/2001 ★★★★ 01.10.02
原案・監督:ディーパック・シヴダサーニー/撮影:ラージャン・キナギ/音楽:サンジーウ・ダルシャン/詞:アナン・バクシー
出演:アジェイ・デーヴガン、マードゥリー・ディクシト、プリティー・ズィンター、ヴィクラム・ゴーカーレー、ラジーヴ・ヴェルマ、キラン・クマール、ティクー・タルサニア、ブリージ・ゴーパル、ディープ・ディローン、スミター・ジャイカル、ジャイシュリー・T
特別出演:サニー・デーオル
公開日:8月10日
STORY
車泥棒のヴィッキー(アジェイ)とサークシー(プリティー)は、結婚を約束した仲。しかし、盗難車組織のトラブルに巻き込まれ、ヴィッキーは彼らに轢き殺されてしまう! と思ったら、翌日、彼は見知らぬ町マナリで豪邸に住むプラタップ(ヴィクラム)の息子ロヒト(アジェイ)と間違われる。しばらくロヒトになりすましたヴィッキーだが、彼には結婚したばかりの妻ニーハ(マードゥリー)がいると知り、身のうちを告白。しかし、意外にもプラタップは死んだ息子になりすまして欲しいと依頼。実は、新婚旅行に出かけたロヒトは轢き逃げにあって死亡、それを目撃したニーハはショックのあまり記憶を入れ違えてしまったのだ! 金になるからと気軽に引き受けたヴィッキーだが、ロヒトが自分の身代わりとなって死んだことを知り、罪の意識を感じて身代わりを止められなくなってしまう。一方、サークシーは、彼女の母親に取り込んだ盗難車組織の連中が縁談を仕掛けて・・・。
Revie-U *結末に触れています。
オープニング・エピソードは、競馬場でプリティー・ズィンターがキザなアジェイ・デーヴガンに付き纏われ、助けを求めたロン毛の梅津栄風メイクのティクー・タルサニアからベンツを頂いてしまう、というもの。ふたりは詐欺師兼車泥棒と判るのだが、カモにされるティクーだけでなく、観客そのものを欺く演出はちょっとわざとらしく古く感じる。
ちなみに競馬場ということで、プリティーはオードリー・ヘップバーンを意識した衣装?? ティクーは定番通り、後半も登場して2度車を盗まれる。
この後、高級車を盗難しまくるタイトル・ミュージカル・ナンバー「yeh raaste hain pyaar ke」へ突入。歌いながら車を盗むとは「60セカンズ」(2000=米)を軽く凌駕。このシーンはマレーシア・ロケで、バックグラウンド・ダンサーに東洋系を起用、いつものダンス・シーンとは少々趣が異なる。ジャスピンデール・ナールラーのファンキーな歌声が耳に残るが、コーラスによるサッド・ヴァージョンも佳い。
ヴィッキーたちは、欲をかいた組織に追われ、駅に逃げ込んだ彼と入れ違いで出て来た二役のロヒトが轢き殺されてしまう。 この事故現場が一種「羅生門」(1950=大映)めいて、ヴィッキー、サークシー、ニーハの三者三様で受け止められ、ストーリーに弾みをつける。
事故現場に駆けつけたサークシーはヴィッキーが死んだと思い込み(よく見れば、服が違うのだが)、ニーハは目の前で新郎ロヒトが轢き殺された極度のショックから「彼は死んでいない、事故も見ていない」と記憶を書き換えてしまう! そのため、ロヒトの遺体に駆け寄ったサークシーの姿も「見ていない」のだ。
一方、ヴィッキーは行き先も判らぬ長距離バスに飛び乗り、翌日目が覚めてみれば、ヒマラヤ・リゾートのマナリ(シムラーより先)に辿り着いていた。見知らぬ町で人々から挨拶される上、警官さえ彼を誰かと見間違いしているので、図に乗って車で送ってもらうと豪邸に連れて行かれる。家人はほとんど留守で、最初に顔を合わせた年老いた祖母も彼を見間違う。ヴィッキーは自分と瓜二つのロヒトが写った写真をみつけ、しばらくなりすますことにする。
次に使用人が3人ほどやって来て、彼に挨拶するが皆ひどく酔っている。何事かと思えば、シヴァの大祭シヴァラートリーを祝うため、ソーマ酒ならぬバングー・ジュースの大盤振る舞い! さすがヒマラヤのお膝元だけある。ここでミュージカル・シーンとなるのだが、なんとシヴァ寺院のオープン・セットは「ベン・ハー」(1959=米)級! シヴァ神像も高さ10m、背後のアーチはさらに高く、人々がぎっしり埋め尽くしている。ちょっとした学校の校庭ほどある寺院の中庭で黄色、赤、青・・・いろとりどりの衣装を着たダンサーが総勢500名ぐらいで乱舞する! もちろん、このオープン・セットはこのシーンのみ登場だ。
翌朝、ベッドで寝ているヴィッキーを見て、主のプラタップは不審に思い、友人のドクターを呼ぶ。ヴィッキーは、ロヒトが結婚していることを知ることになる。花嫁衣装(着飾ったサーリー)姿の新妻ニーハが、マードゥリー・ディクシト。ここで、手に負えなくなったヴィッキーは正体をプラタップに明かすが、逆に大金を積まれ、彼女が立ち直るまでしばらくロヒトになりすますことを頼まれる。元々、詐欺師のヴィッキーだけに断る理由はない。二役、そして、二人の結婚相手と、よくある話をミックスした話の作りだが、同じく二役なりすまし物「Chhupke
Rustam(大勇者)」(2000)よりもしっかりしている。
プラタップ役のヴィクラム・ゴーカーレーは、「ミモラ 心のままに」HDDCS(1999)でアイシュワリヤー・ラーイの父親を演じていた人。威厳があって、どこか人を信用しない、力で人を支配しようとするキャラクターだが、本作ではヴィッキーを不審に思いつつも、亡き息子を思い、忘れ形見となった嫁ニーハを気にかけ続ける父親像そのものとなっている。
このプラタップの語りで、ロヒトとニーハが結婚するまでの回想シーンとなる。ふたりは小学校の同級生で、仲のよい幼なじみ。ロヒトが卒業生の講演を頼まれ、ニーハと再会。ふたりは恋に落ち、即結婚しようとする。実はニーハには親の決めたフィアンセがいるのだが、このライヴァル役の特別出演がサニー・デーオル。アジェイの主演作にサニーがゲストというのも凄く濃いキャスティングである。サニー・デーオルは「Darr(恐怖)」(1994)の頃よりダンスが上達しているが、これは振付の効果も大きい。
「Dhadkan(ドキドキさせて)」(2000)でもシルパー・シェッティーの父親を演じていたキラン・クマール扮するラーンジャーンがこれまた反対。ニーハは家出同然にロヒトと結婚、事後報告の形で家に電話すると、案の定勘当を言い渡される。それを知ったプラタップは、ニーハを自分の娘として受け入れることを誓う。そんな入り組んだ事情もあって、新婚早々のニーハはロヒトの死を書き換えてしまうわけで、説得力はある。
ただ、この時点でロヒトが死んでから2日後の朝になるわけで、その間、プラタップはデッリーへ出かけ、検死に立ち会い、ショックで倒れたニーハをCTスキャンにかけて検査したりしなければならないので時間的にはギリギリだ。まあ、バングージュースに酔ったヴィッキーが何日か眠り込んでいた、ということかも知れないが・・・。
さてサークシーだが、ヴィッキーの死を間の当たりし、ひたすら悲嘆に暮れている。彼女の母は強欲で、父親を尻に敷いていて、出かける時もスクーターを運転するのは母の方。父は後ろに申し訳なさそうに座る。気弱な父はサークシーの心情をよく理解していて、彼女の望む相手と結婚させたい、と思っている。結婚相手を間違えると不幸になるぞ、と我が身で知らせるようなカットもあり、このへんの演出も細かく行き届いている。
粗っぽい展開がいかにもマサーラーだが、監督のディーパック・シヴダサーニーの演出は、嫁に行ったニーハの娘としての気持ちや、亡き息子の忘れ形見となった嫁に対する義父プラタップの思いなど細かいところに気が配られている。これがあるからこそ、荒唐無稽なストーリーにもエモーションが付いてゆくのだ。
さて、孫のロヒトが実は死んでいたと知った祖母がガネーシュに嘆き、デッリーではサークシーが自宅のガネーシュに祈っている。すると、死んだと思っていたヴィッキーが生きて現れ、彼女は深く感動するのだ。これもシヴァに並んで力のあるガネーシュだけに、大いに感情を揺さぶる。ヴィッキーは事情を説明に彼女を訪ねたわけだが、話しながら駅まで歩いてゆくと、その場で彼がバスに飛び乗って助かり、一方でロヒトが身代わりとなって死んだことがモンタージュされる。罪の意識を痛感したヴィッキーは、これを運命的なものと受け止め、またまたロヒトの身代わりを続けてしまうのだ。
マードゥリーが、この記憶を書き違えた新妻ニーハを好演している。さすがに年齢を感じさせるようになったが、マードゥリーはまだまだ美しく、そして、演技力は確かだ。何も「知らず」純粋無垢に振る舞うニーハ、それ故、彼女の哀しさが醸し出される二重の芝居は並みの女優にはできまい。
さらに事態を複雑にするかの如く、勘当したはずのラーンジャーンがプラタップの屋敷を訪ね、ニーハと和解し、花嫁側の結婚披露宴を行う。こうして、ヴィッキーはますます身が引けなくなってしまう。その上、サークシーに縁談が持ち込まれ、相手はなんとロヒトを殺した連中だ。もちろん、口封じのためである。
それを伝えに、サークシーは「友人」を装って、プラタップの屋敷を訪ねる。帰宅すると、彼女がいるのでヴィッキーは驚くが、すべて事情を知っているプラタップの計らいでふたりは別のゲストハウスへ行く。この「事情を知ってる」プラタップの配慮というのが佳い。
サークシーの緊迫した状況に彼女と結婚すること決意したヴィッキーは、その晩、すべてをニーハに告白するが、話し終えてみると、なんとニーハは眠り込んでいる。笑い話のようだが、心理学的に見ても記憶を書き換えたのと同様に、無意識に耳を閉ざして眠り込んでしまったわけだ。
テラスに出たヴィッキーに起きてきたニーハが話の続きをせがむ。聞き終えた時、彼女は窓から飛び降り自殺を図るが、これはヴィッキーの幻想で、これにより彼が真実を話せなくなってしまう、という風にうまく押さえ込んでいる。
なかなかどうして、ヤキモキさせられる。ジェットコースターのような前半といい他愛ないストーリーながら、思いも寄らぬ展開が次から次へと起こり、よくできたマサーラーの見本の様だ。ロヒトに扮するヴィッキーが煮え切らない気もするが、これも観客をじらすためだろう。ただし、マードゥリーの微妙なトーンに対し、アジェイの実力からすると芝居が単調に思え、作品の質を一歩留めている。
そして、「ロヒト」の誕生日パーティーのシーン。すでに死んでいるロヒトの誕生日を祝うのだから、事情を知っている連中にとっては甚だ心苦しい限りだ。ここでも、ひとり、ニーハだけが天使のように振る舞う。音楽のサンジーウ・ダルシャンもそのへんを考慮して、それぞれの気持ちが交差する輪唱で提供。マードゥリーがピアノを弾けば、プリティーがストラトキャスターをつま弾いてしまうのには、思わず唸る。
クライマックスは、組織の連中が乗り込んで来ての血まみれアクション。翌日、サークシーが別れの手紙を寄越したすぐ後、殴られた彼女がヴィッキーたちの足下に放り出される。このトートツ感は典型的なマサーラーだ。ここでヴィッキーが轢き殺されそうになり、ニーハは「ロヒトの死」を現実として受け止め再び卒倒。
ラストは、立ち去ろうとするサークシーをロヒトの死を受け入れたニーハが呼び止め、ヴィッキーはサークシーのもとに、ニーハにはサニー・デーオルが付くというオチ。このシーンに現れたマードゥリーはシンドゥールを落として喪に服したメイクとなっている。ただ、サーリーは限りなく白く近いが胸から下にかけて薄く燻し銀のグラデーション。本来なら白いサーリーでなければ喪服にならないのだが、撮影当時、新婚早々だったマードゥリーへの配慮だろう。
ちょい古いセンスが、新世代の先走った「洋画」テイストと比べると、居心地の良さを感じてしまう。マードゥリーが結婚したとは言え、同時期公開の新人映画「Pyaar
Ishq Aur Mohabbat(恋、ロマンス、そして愛)」(2001)、「Hum
Ho Gaya Aap Ke」(2001)に差を付けての動員。ムンバイーではぼちぼちだが、地方によっては2週目の入りが伸びており、まずまずの成績。
なんだかんだと言われるマサーラーだが、観客を楽しませる要素はたっぷりなので、今後もこの手の話は作られてゆくだろう。
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