ひんでぃーこれくしょん<G>
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Ghayal(傷ついた者)/1990  02.01.10 ★★★★
ガーヤル
製作:ダルメンドル/脚本・監督:ラージクマール・サントーシー/台詞:ディリープ・シュクラ/撮影:ラージェン・コータリー/セカンド助監督:ラージ・カンワル/詞:アンジャーン、インディワール/音楽:バッピー・ラーヒリー/振付:サロージ・カーン/殺陣:ビクー・ヴェルマ/殺陣助手:ティヌー・ヴェルマ/美術:ニティーシュ・ローイ
出演:サニー・デーオル、ミーナークシー・シシャードリー、アムリーシュ・プリー、オーム・プリー、クルブーシャン・カルバンダー、モーシャミー・チャッテルジー、シャラート・サクセーナ、シャーフィー・イナムダール、ディリープ・ディローン、スデーシュ・ベリー、シャビール・カーン、ミトワ

特別出演:ラージ・バッバル
公開日:1月22日。年間トップ1ヒット!
FILM FARE AWARD :作品賞、主演男優賞(サニー・デーオル)


STORY
ボクシング・チャンピオンを目指すアジェイ(サニー)は、行方不明になった兄アショーク(ラージ)を捜索するうちに麻薬組織を牛耳る大物バルワーント・ラーイ(アムリーシュ)の正体をつかむ。が、アジェイは兄殺しの罪を着せられ、刑務所へ送られてしまう! 復讐を誓ったアジェイは囚人仲間と脱獄し、バルワーント・ラーイを追いつめようとするが・・・。


Revie-U *結末に触れています。
暗闇に響く鞭打ちと叫び。金網に叩きつけられる男。タイトル。刑務所へ到着する護送車(ロングショット)。手錠に繋がれた一人の男が降り立つ。囚人服を着た男に向けられる古株囚人たちの厳しい視線。男は黙々と雑役をこなす、まるで蓄積した怒りを吐き出すように。夜、フラッシュバックする悪夢に魘されながらも、男は身体を鍛え、がむしゃらに働く。その姿が古株囚人たちを圧倒する。
デジタル・ビートに乗って野太いチューバのメロディーが流れるオープニングは観る者を引き込み、「ゲッタウェイ」(1972=米)のモンタージュに匹敵する。
そして、悪夢に魘された主人公に声をかけた同房の古株囚人たちがそれぞれの罪状を明かした後、アジェイの語りとなる。

例によっての長い回想シーン。オープニングのハードボイルド・テイストとは裏腹に、回想シーンはコテコテのラブ・コメディ・タッチ! 呼ばれて飛び出すマジック・カットから当時、爆発的人気を誇ったTV「マハーバーラタ」のパロディまで。トドメは「ランバダ」イタダキのミュージカル・ナンバル! かなり唖然とする定番ギャグの連発である。
兄アショークに扮するは特別出演のラージ・バッバルChhupa Rastam(大勇者)(2000)のインチキ・ムードは微塵もなく、10年若い分スリムで濃い顔つきはサニー・デーオルの兄役に相応しい。
だが、このハチャメチャぶりも、アショークが突然姿を消したことから一気に転調となる。
実はアショークは、麻薬組織のトラブルに巻き込まれ、拉致されたのだった。組織のボスとは、表向きは慈善事業も行う大物ビジネスマンのバルワーント・ラーイ。演じるは、敵役の黄金期にあったアムリーシュ・プリー。凄みあふれる鬼瓦顔で死のイメージが漂うピアノ曲を披露する。ラストでは、子供を人質にとってマシンガンをぶっ放す悪らつぶりもたまらない!!

このバルワーント・ラーイを深追いし過ぎたため、アジェイは兄殺しの汚名を着せられて服役の身となったのであった。オープニングで彼の黙された憤りに共鳴し、長い回想を聞き終わった同房の3人、ラージャン・ベーリー(スデーシュ・ベーリー)、ワルター・ラージャン(シャビール・カーン)、ミトワ(ミトワ)はアジェイの復讐に加担することを誓う。
さて、雨の中、砕石場での脱獄シーンである。それまでは、過剰なギャグと大仰な捜索の過程がやや停滞感を漂わせたものの、以後、クライマックスまで駆け抜ける怒濤の復讐活劇が展開する!
しかも、脱獄したアジェイたちが捜査陣の裏をかき、警察署長アショーク・プラダーン(クルブーシャン・カルバンダー)宅を根城とするところが奇抜。ここから立ち去る際、事情を知ったプラダーンの妻娘がアジェイに見せる情愛も心に響く。
捜査にあたる警部ジョー・デスーザ役は、Gupt(秘密)(1997)でも同様の役回りを演じたオーム・プリー。芸術映画で培った余裕の芝居を見せる。もちろん、クルブーシャンとのわりと長い掛け合いシーンも用意され見応えありだ。
アジェイたちは、バルワーントの子飼いデカー(シャラート・サクセーナ)、偽証して彼を売った伯父グプタ(シャーフィー・イナムダール)、バルワーントの右腕となる悪徳警官プラタップ・シャルマー(ディリープ・ディローン)らを次々と奇襲しつつ、相棒たちが一人、また一人と命を落としてゆく。主人公に花を添えるためにあるような、儚い男たちの友情も観客の心を掴んだに違いない。

そして、ヒロイン、ワルシャー(ミーナークシー・シーシャードリー)を拉致したバルワーント・ラーイの麻薬工場へ単身乗り込むサニーこと人間機関車は、遂にワンマン・アーミーの権化ランボーと化す! 工場を破壊し、火の海にしたアジェイは(ワルシャーを置いたまま)、アンバサダーで逃走したバルワーント・ラーイをジープで追い、正面に先回りする。急ハンドルで避けたバルワーント・ラーイ自ら運転するアンバサダーは、なんと夜間営業の遊園地へ突入!! ノンストップ・アクションの末は、パニック物になってしまうのだ!!!
サニー自身、屋台をなぎ倒すジープを吹き替えなしでドライヴィング!! と迫力満点!!! Gadar(2001)でも無双の怪力ターラー・シンを演じたサニーだけに、本作でもアムリーシュの首を占める彼を引き離すのにオームはじめ警官7、8名がかりで1分以上かかるほど!
ようやく引き離されたアジェイに寄り添ったヒロインがそっと拳銃を手渡すのもぐっと来る。かくしてアムリーシュは怒りの銃弾を受けまくり、壮絶な死に様を見せる。サニーが差し出す拳銃を受け取るオームの薄笑いもまたよい。

本作はサニーの怒り爆発が話題を呼んで、なんと年間トップ1ヒット! FILM FARE AWARD 作品賞主演男優賞も受賞! 製作はサニーの父親にして、Sholay(1975)のダルメーンドル
サニーは、シャー・ルーク・カーンジュヒー・チャーウラーと共演したDarr(恐怖)(1994)では、あまりにも
パッとせず、「何故こんなムサイ男とジュヒーが?!」と思わせたものだが、その後のヤーシュ・チョープラ作品を見ると彼とは合わなかったようで若きシャー・ルークの引き立て役に終わっていた。その点、本作では父親製作ということもあり、とにかく突進するサニーが強烈に描かれている。
また本作は、弟ボビー・デーオル主演作にも多大な影響をもたらし「Gupt」
Badal(雲)(2000)などボビー版「Ghayal」と言える。なにしろ、「Badal」の監督ラージ・カーンワルは本作の助監督であり、ラージクマール・サントーシーの正統的継承者でもあるのだ。

しかしながら、最もインパクトを放っていたのは、音楽のバッピー・ラーヒリーである。なんと、全編「ブラックレイン」(1989=米)のイタダキ背景音楽がエンドレスで鳴り響くのだ! 音楽ひとつで、こうもエキサイトさせられるものなのか。
と言うことは、オリジナルのハンス・ジマーに負うところが大きいと思われそうだが、バッピーの鬼才たるところはこれだけではない。動(努)が「ブラックレイン」なら、喜哀楽が「ランバダ」で、演歌調バージョンからサッド・バージョンまで用意されている。しかも、この2曲を単に使い分けるだけでなく、2つのフレーズを融合させて壮大なエモーションを紡ぎだす一大楽曲にまで高めていることだ。
別のシーンでは、警官隊が出動するサスペンスと踊り子ダンスが絡みあってひとつのモンタージュを成していたりと更に感嘆してしまう。
無論、畳み掛ける編集やサロージ・カーンの振付、当然、ラージクマールの演出が一丸となっているためであるが。

それにしても、脚本・監督のラージクマール・サントーシーは、これだけ怒濤のハード・アクションを展開させながら、何故あそこまでコテコテの回想シーンを用意したのか? 欧米的(日本を含む)映画論法からすると、破綻していると言わざるを得ないのだが。
これは、インド女性の受ける苦難を壮大なスケールで描いたLajja(恥)(2001)にもアジェイ・デーヴガン扮する義賊と村を牛耳るタークル兄弟たちとの死闘がインサートしてあったりする、彼一流のサービス精神なのかもしれないが・・・。
ところがこの点に関して、「喪失の国、日本 - インド・エリートビジネスマンの日本体験記」M・K・シャルマ著/山田和訳/文藝春秋刊)の一節がふと思い出された。この本はサブタイトルが示す通り、インド人ビジネスマンから見たバブル後期の日本論である。ともすれば日本通の著者の目は、「日本」という国をかなり美化しているように思われ、現代日本人の感覚する「日本」と大きく隔たりが感じられるのだが、それはここ20年の日本が大きく変化したためでもある。ここで注目したいのは、1章を割いて記された近現代日本文学の世界的代表作「金閣寺」における三島由紀夫論だ。
著者の友人(デッリーの大学生たち)の「金閣寺」読後感は、概ね「子供ばかりが登場する(未発達な心理の)作品」と評し、次のようにある。
「考えてもみろよ。生まれてから故郷を離れるまで友達というものをもったことがない人間なんているだろうか。親の愛を感じたことが一度もなかった人間なんているだろうか。(中略)しかしそんなことがあると思うかい。どんな人間にだって、いくらかの幸せや愛の記憶はあるものだよ。それが彼を人間ならしめているはずだ。登場人物たちが皆、精神的に未熟だという感じがするのはそこなんだ」
この批評が三島論として正鵠を得ているかどうかは別として、ここにインド人の物語(人生)に対する認識が伺われているのが大変興味深い。
なにしろ、「レオン」(1994=米)を翻案したBichhoo(サソリ)(2000)にでさえ、殺し屋である主人公に「権力者の娘と恋したがために、圧力をかけられた母妹が焼身自殺。恋人も自殺。遂に怒りが爆発し、権力者を射殺したことから殺し屋となった」という過去やラブラブ・ミュージカル・シーンがきっちり描き足されていた。まさに「どんな人間にだって、いくらかの幸せや愛の記憶はあるものだ」である。
そんなわけで、怒り爆発の主人公にも兄弟愛や恋人との愛があって相応しいのだが、何故コテコテなのかは、依然課題である。
なお、「喪失の国、日本」は、この「失われた10年(20年)」に日本人が何を失ったか、改めて考えさせてくれると共にインド人の生活観、人生観がよく判る良書である。一読をお奨めする。

 
 
 

 

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